583. 今に留まる

風の中に、鐘の音の余韻のようなものを感じるが、教会の鐘が鳴り終わったのはもう数分前のことだ。実物を近くで見たことはないが、かなり離れたところまで響く大きな鐘の音は、思った以上に長い時間、遠くまで届いているのかもしれない。

シャワーを浴び、いつものようにリビングに置いてあるポットに水を足そうとすると、ポットがほんのりとあたたかいことに気づく。ほんのり、というのは控えめな言い方かもしれない。「熱くはないけれど、明確にあたたかいと分かるくらいに」というのが適切だろうか。

そういえばこれまでも、朝、なんとなくポットに入っている水があたたかいと感じることはあった。日によって、お湯が沸き始めたことを知らせる蒸気の音が聞こえてくるまでの時間が違うことは感じていたが、それはポットに入れた水道水と室温の関係から来るものだと思ってきた。しかし、電熱コンロの上に置かれているポットがあたたまり続けていたということもあったのかもしれない。

コンロの表面を触ると、ポットと同じくらいのあたたかさを感じる。温度の高さを示す目盛りは0のところに合わせてあるが、コンロがついている状態だったのだろうか。

そんなことを考えながら、小さな煎茶椀に湯を注ぎ、コンロの上にポットを戻す。

湯を覚ます間に着替えをしようと寝室に向かう。

その過程で、視線はいつも、「少し先」に移っていることに気づく。特段急ぐ理由も必要もないはずなのに、心は恐ろしいほどに先を急ぐ。「今目の前で起こっていること」に、どれだけ意識を留めているだろうか。

これは、仕事や人間関係においても同じことが起こっているのかもしれない。「ああしよう」「こうしよう」ということに考えを巡らせ、実際にそれをするときにはもう次のことを考えている。「もっとこんなことができるようになればいいのに」と思う部下が「実際に取り組む姿」をどれだけ見ているだろうか。

先日、エサレンボディワークを実践している方が「しっかりと感じていたら、自然に手が動いていく」「あっちに動かそうと考えない」という話をされていたことを思い出す。

「前に進もうとすること」「未来に向かうこと」で得られるものもあるだろう。しかし今は、世界にはあまりに、前へ前へ進もうとしている力が働いているように思う。成功のためのノウハウは溢れるほどにあるけれど、どこにも向かわずに今に留まってみようということをどれだけの人が言ってくれるだろうか。

それは決して、変化をしないということではなく、今この瞬間を感じ続ければ変化は自然に起こってくるのだと思う。2020.3.8 Sun 10:48 Den Haag

584. 梨の花が散るまでに

パソコンから顔を上げ、中庭の木の枝に目をやると、白い小さな花が咲いていることに気づく。今私の目で捉えられるのは、おそらく、二つの並んだつぼみが開いた様子だが、実際にはもっとたくさんの花が咲き始めているのかもしれない。私から見えるということは、北側の枝の花が咲いているということだ。どうやら木に咲く花というのは、必ずしも東から咲いていくわけではないようだ。

ほとんどのつぼみはほどけかけている。内に向かうエネルギーから、外の世界とつながり、循環するエネルギーに。木全体を取り巻く流れのようなものが生まれているように見える。

この花が咲き、そして散っていくのは、3月の下旬頃になるだろうか。その頃までに、日本にいるパー日本にいるパートナーはこの花が散るまでにオランダにやってくることができるだろうか。先の長い人生と言うこともできるし、そんな中で、今は今しかないと言うこともできる。平和が、そして地球が、いつまでも変わらずに続いていくとも限らない。

そんな中で、パートナーシップというのは、日々の体験の中から織られていくことであって、日々の体験を共にしない相手と、果たしてそれが成り立っていると言えるのだろうかという気がしている。離れた人を想うことは美しいことではある。でも、「それは美しいことだ」という観念に囚われてはいないだろうか。現実世界にどんな体験をつくりだしているだろうか。

小さな花が開いたということを、言葉で伝えるのではなく、共に観るという体験をするということこそが、共に在るということであって、私にとって美しいと思える関係なのだろう。過去の思い出の美しさではなく、今生きていることのもどかしさを共に味わうような、そんな時間と関係をつくっていきたい。それもきっと、自然な流れの中から生まれていくのだろう。結局のところ日々自分自身がどう在るか、どう生きるかということなのだろう。2020.3.8 Sun 11:02 Den Haag