573. 目に見えない変化を見守って

鳥の声に耳を澄まし中庭の木の枝先で膨らみ始めた蕾を眺めながら、「どんなに頑張ってもものごとはある面からしか見ることができないのだな」と思った。それは今、数日前よりも明らかにふくらんできている蕾を見て、「木のどちら側から花が咲くだろう」という考えがよぎったことに始まる。

私から見ると、東側にあたる左手の側の蕾のほうが右側の蕾よりもふくらんでいるように見えるが、明らかにそうかというと怪しいとも思う。「東側から花が咲いていくだろう」という知識や記憶が、今見ていると思っているものにフィルターをかけているかもしれない。

見ていると思っているものの8割は記憶や意識によって処理されているというのは日記でも何度も書いてきたことだが(それだけ私の中で知ったときの衝撃が大きく、自分の中で格言のようなものにもなっている)、そもそも、この窓から見てどちら側が東なのかも、目の前の木のどこから蕾がほどけ花が咲いていくかも、定かではない。

そして仮にそれを目を凝らして観察し、確かだと確信ができたとしても、本当にそれが事実だと言えるだろうか。あの木を逆側から見たらどう見えるだろうか。上から見たらどう見えるだろうか。下から見たらどう見えるだろうか。奥行きを認識できるとしても、基本的に人は立体を平面で捉えているし、仮に、立体で捉えられたとしても、本来そこには時間が流れている。さらには時間も含めて捉えられたとしても、認知を超えた次元がそこには存在しているかもしれない。

だから仮に、目の前の木を全方位から包括的に捉える視点を持てたとしても、それが「全体である」とは言えないのではないだろうか。

庭の池の淵には、小さな黄色い花が三つ、茎の先に首をもたげている。以前咲いていた二つの花はすでにしおれてしまったようだ。物理的には「しおれている」かもしれないが、エネルギーとして考えるとどうだろう。もしかしたらそこには咲いている花より大きなエネルギーが存在しているかもしれないし、違う種類のエネルギーを含んでいるかもしれない。今見えている花は枯れるとしても、来年またあの植物の花が咲くとしたら、同じ場所でなくとも、どこかであの花が咲き続けるとしたら、何が花にとっての死だと言えるだろうか。

考えるほどに、世界は自分が見ているもの、こうだと思っているものとは随分と違うのではないかという気がしてくる。目の前の木にはもう、私の目には見えないだけで、花は満開なのかもしれない。

人間が視覚的に、もしくは計測可能な状態として認知できるものというのは、微細な変化でいうと、だいぶ後半、指数関数でいうと「ぐいっと上がり始めてから」なのかもしれない。数学的に正確な言葉をあてられないことがもどかしいが、とにかく、目に見える変化というのは、最後の最後にやってくるように思える。

以前、散歩の途中で拝借した小さな木の枝を花瓶に挿していたところ、枝の先から根が伸びて、それから葉が生え始めた現象にも近いだろうか。私たちは普段、花瓶から出ている枝と葉の部分ばかりに目を向ける。しかし、葉は、根が育ってこそ伸びてくるのだ。葉が育っていないように見えても根が育っているのだ。

根っこはまだ見ようと思えば見ることができるが、人の心や意識というのはそうはいかない。それでもそこにあるものを感じようとすること、信じること、祈ること。そうやって向き合う長い時間の中で、変化は自然に起こっていくのだろう。「長い」と言っても、宇宙の時間で考えればそれは一瞬のことだ。2020.2.28 Fri 10:18 Den Haag