571. 愛の表現

ピピピピピピピピ。一定間隔で声を上げる聞き慣れない鳥の声が聞こえてくる。

真南に近い方角から差し込む日差しが眩しくてブラインドを閉めていたが、庭の木の蕾の様子を見たくなりブラインドを上げた。逆光になりよく見えない部分もあるが、開きかけている蕾もあるように思える。隣の家の1階の屋根の向こう側には、また一つ赤い花が開いた。

先週末観戦をしたフィギアスケートからの学びを書き留めておきたいが、早くも記憶が薄れているものもある。あんなにも感心したことがこんなにも薄れていくなんて。この薄れ具合は寝ている間に見ている夢と大差ないかもしれない。起きている間に考えていることも、脳の体験としては夢を見ているのとさほど変わらないのだろうか。

日曜日は前日よりも早く会場に到着し、審査員席の後ろ、ちょうど中央を示す赤いラインの延長線上の席に座った。前日には会場全体を見渡せる席に座りそれはそれで良かったのだが、もっと近くで観るとどんな違いを感じるかを比べてみたかった。

午前中に始まった女子のシニアでは、前日のショートプログラムでの点数をもとに、フリースケーティングでは順位の低い人から順に滑っていく。全体で22人、5人の組が2つ、そして6人の組が二つ。

見ていると、下位の組の選手たちと上位の組の選手たちはそれぞれに共通点があることに気づく。まず、下位の組の選手たちは審査員や観客にほとんど視線を送らないのだ。何か「自分の世界の中」で演技をしている感じ。プログラムをこなす感じでもあり、「観客に向けた表現をしている」という風には感じられない。一方で上位の組になってくると、選手は時に審査員に強い視線を送り、微笑みかけ、会場全体にも視線を送る。近くと遠く、そしてその間の視線を使い分ける。これがさらに上位の選手になると、常に「全体」を感じながら時折アクセントで審査員に視線を送るようになる。

見続けていると、ジャンプに成功するかどうかも飛び始める前に分かるようになってくる。踏み切る直前に足元の低い位置に視線を落としているときはジャンプがほぼ失敗するのだ。もちろんそうでなくても失敗することもある。しかし、下位の選手は一度失敗するとどんどんと視線が落ちていきさらに失敗をするという負のスパイラルに入っていく一方で、上位の選手は一度失敗したとしても視線を上げ続け、結果として持ち直していくということが多かった。

これは、上位にいるから視線を上げる余裕ができるとも言えるだろうし、視線を上げる余裕があるから上位に入る滑りができるとも言えるだろう。

視線以外にも、審査員席ギリギリを滑るかどうかや、審査員席の近くでジャンプなどの技を行うかなど、上位の選手にはいくつもの共通点(下位の選手との相違点)があった。

もう一つ興味深かったのが、女子シニアの次に行われたペアのシニアで感じたことだ。ペアの選手たちは、競技上のみのペア(カップル)の場合もあれば、プライベートでもパトナー関係にある人たちもいる。その違いもリンクに出てきたときから分かるのだ。

分かると書いたがこれはあくまで私の主観であって実際にどうかは定かではない。しかし、人間観察が好きな私としてはこの感覚はあながち間違っていないのではないかと思っている。

ペアも男子や女子と同じく、まず組が始まる際にその組で滑るスケーターが全員リンクの上に出てきて紹介をされるのだが、出てきたときにまず二人が向き合って手を取り合い足踏みをするようにしてアップをする人たちと、片手をつなぎ、正面(審査員席の方)を向いて横並びに足踏みをする人たちがいる。私の見立てでは、向き合って足踏みをする人たちはパトーナー関係にある人たちである。

その人たちは演技が始まる前、名前が呼ばれてリンクの中央に出てくる前にも、少しの間向き合う時間がある。そして決定的なのは、演技が終わった直後。書面から抱擁し合う人たちとそうでない人たちがいる。さらにリンクを去るときに、大抵の場合は男性が女性の肩か腰に手を添えるのだが、そこで男性が女性の頭や額にキスをすることがある。そこには国民性や文化というものももちろんあるけれど、それらを超えたものがにじみ出ているのではないかとリンクを後にする選手たちを見ながらつくづくと感じた。(こう書くと、「そんなところまで見ているのか」と、可笑しい気持ちにもなるが、実際のところ私は選手の一挙手一投足を目を皿のようにして見ていたと思う。これはもう、職業病であり趣味のようなものでもあるので仕方ない)

そしてもう一つ競技場のペアと、それを超えたパートナー関係にある人たちの違いで感じたのは、後者は「演技で愛を表現しない」ということだ。表現しないわけではない。「あからさま」に、もしくは「分かりやすく」は表現しないと言った方が適切だろうか。それでも滲み出てくるのだ。

本来、愛とは、信頼や愛おしさ、葛藤など様々な感覚が混ざった感情なのだと思う。それを、「愛」だけすくい取って表現しようとすると、どこか表面的というかハリボテのような感じになる。油絵で、下に様々な色の重ねられている赤なのか、そうではなく赤だけ塗った赤なのかというような感じだ。

演劇において、アンドロイドを人間の動きに近づけるためには、わざと動きのムラなどの「ノイズ」を入れる必要があるという話を聞いたことがあるが、愛の表現についてもきっと同じことが言えるだろう。愛を愛として淀みなく表現することができない。それこそが愛なのだと思う。

もっともっとたくさん、感じたことや考えたことがあったはずなのだが、今改めて言葉にされたがっているのはこのくらいだろうか。その他のことも、きっと私の中に感覚として残っているだろう。これはやはり、生のものを環境も含めて身体全体で感じたからこそ起こることであって、解説を聞いていたらこうはいかなかったと思う。自分の中の美意識を育てるのに解説はいらないのだ。

来年もぜひまたハーグで開催されるチャレンジカップを観に行きたいし、それまでの間も美術鑑賞や自然の中で過ごす時間など、感覚全体で感じる時間を大切にしていきたい。2020.2.25 Mon 12:19 Den Haag