568. 枝の先の蕾たち

中庭に視線を落とすと、小さな黄色い花が咲いているのが目に留まった。揃って西の方角に頭をもたげる5つの花。あれは確か、前回ここに座ったときにはなかったはずだ。庭の中央にある木の枝先につく蕾の一つ一つの膨らみも、大きくなったように感じる。隣の家の屋根の端に見えていた赤い花は姿を消した。一気に姿を消したということは、あれは椿だったということだろうか。

数日の間に季節が巡っているということを感じる。生命のエネルギーが足元から浮き上がってきているようだ。

一昨日、庭の木は梨の木だと階下に住むオーナーのヤンさんが教えてくれた。夕方、2階と3階の呼び鈴が繰り返し鳴らされ、誰だろうと思って共有の玄関に降りて扉を開けると、申し訳なさそうな顔をしたヤンさんが立っていた。鍵を忘れて入れなかったという。

ヤンさんはたまに鍵を忘れて出かける。そんなとき、ヤンさんは、2階と3階の呼び鈴を鳴らす。これが宅配業者なら、1階から順に呼び鈴を鳴らしていく。この建物の住人であれば誰が出てきてもいいけれど、1階の住人は不在だということを知っているのは、1階の住人であるヤンさんなのだ。『鳴らされなかったベル』という、シャーロックホームズ的な小説が書けそうな気がしてくる。

それにしても、家の鍵を忘れて出ても(オランダの家は、ホテルのオートロックのような感じなので、出るときには鍵がなくても勝手に鍵が閉まる)、呼び鈴を鳴らせば誰かいるから大丈夫と思えるのは、平和というか安心というか…。この、なんとなく程よい距離感に他者がいるけれど干渉し合わないというのはオランダの特徴なのかもしれない。

玄関の扉から自転車を入れ、階段の下に置いたヤンさんは、調子はどうかと聞いてくる。庭の木に蕾がつき始めて春の訪れを感じているということを伝えたいが、「蕾」を表現する英語がなかなか出てこない。あの手この手で説明をし、あの木は何の木かと聞くと「pear」だと、ヤンさんが教えてくれた。いつもなら4月に白い花が咲くところが、今年は冬があたたかく、3月には花が咲きそうだという。「あなたはあの白い花が咲くのを見たか」と聞いてくるので、昨年の春に花が咲くところ、そして散るところを見てとても美しいと感じたということを伝えた。

部屋に戻り、「蕾」を表現する英単語をネットで調べて見ると「bud」という言葉が出てくる。「芽」を調べると、やはり「bud」が出てくる。本当だろうか。蕾と芽を区別する英語がないかについてはネイティブの人や英語圏での生活が長い人に聞いてみたいところだが、もしそうだとすると、日本語は非常に繊細に物事の区別をしているということになる。日本語の定義の違いとしては、花になるものが蕾であり、枝や葉になるものが芽だという。しかし厳密には、花芽と葉芽があり、花芽と蕾はまた違うもので、花芽がふくらみ、蕾になり、そして花が咲くということのようだ。しかし、日本語のサイトを見まわす限りでは、蕾から花芽になるという順序の方が正しいようにも感じる。このあたりは植物の専門家に話を聞いてみたいところだ。

こうして考えてみると、花芽と蕾は、形状的な違いに加えて、エネルギーの方向の違いを持っているように思える。芽、もしくは花芽は外に向けて開いていくエネルギー、蕾は内に向けて凝縮されるエネルギーを持っているような感じだ。凝縮されたエネルギーの方向が代わり外に向き始めたとき、それは開花の始まりということになる。「なる」と書いたが、あくまで私の中のイメージである。

かつての人々は、そんな風に、形状ではなくエネルギーの方向の違いを無意識に感じ取って、「蕾」と「芽」の区別をつけたのではないかと、そんなことも想像する。

外にパアーっと開く前には一度、内にギューと凝縮されるということは興味深い。自分自身もまさにこの冬、内向きに凝縮する時間を過ごし、少しずつ外向きに開き始めているように感じる。

英単語について考えていると、ヤンさんからスマートフォンにメッセージが送られてきた。見ると「梨の芽」と漢字が表記されている。

今、風に揺れる枝の先についているのは、芽なのだろうか、蕾なのだろうか。目を凝らして感じてみると、主に東側の、2割くらいは芽で残りは蕾なのではないかという気がする。芽吹きの季節、これから毎日、欠かさずここに座って庭を眺めたい。2020.2.22 Sat 8:37 Den Haag

569. 与えられたギフトと共に生きる

ここ数日なのか数週間なのか、いろいろなことがあり、身体のエネルギーのバランスが崩れていたように思う。一連のことを振り返り、自分に起こった現象として検証してみる過程で「エンパス」という言葉に出会った。共感能力が高い体質のことを指すらしい。その特徴の中には、当てはまらないものもあるが、ほぼ当てはまっている。コーチングセッションをしているとクライアントの感情や身体感覚・思考プロセスを追体験するようなことがあり、それは私自身が心身の状態を整えている(個人的な評価や感情が入らないようにしている)ためだと思っていたが、どうやらそれだけではなく、私がもともともっている特性とも関連しているようだ。エンパスにはいくつかのタイプがあって、私はその中でも、感情直感型・知的変容型・スピリチュアルワンネス型をミックスで持っているように思う。それぞれの詳しい定義や特性については日本語で得る情報では不明なところがあるので、改めて英語の文献を読んでみたいと思っているが、ざっくりと感覚的にはそうだろうという感じだ。

中でも、相手の思考構造を自分の中へ取り込み、自分のものとして体験できる能力だという知的変容型にはとても思い当たる節がある。私は自分の専門分野を極めているような人のマニアックな話を聞くことが10代の頃から好きで、今でもまさに、そういった人たちの話を聞くことの楽しみは、その内容もあるが、思考構造をトレースし、その人にとっての喜びや楽しみを追体験することなのだが、そうすること・そう感じることは誰にでもあることなのだと思っていた。日本人の5人に1人がエンパスの資質を持っているということだが、その中でも知的変容型は珍しいようで(このあたりも日本語空間の情報では真偽のほどは分からない)、自分のような楽しみを持っている人はそう多くはないのかもしれない。この資質は今のコーチという仕事に大いに活かされていると言えるだろう。

しかし、エンパスという資質全体で見ると、大変なことも多々ある。東京の「谷」と呼ばれる場所はそこに様々な人の気が集まっている感じがして苦手だったのだが、自分が取り込もうと思わなくても、様々な人の思考や感情を取り込んでしまうという特性とつながっているのだろう。クライアントの思考や感情を共に体験することによって、私はその観察者もしくは目撃者となり、そこで感じたことを言語化して伝えることは、ときにクライアントにとって自分とのつながりを強める後押しになるのだが、取り込んだことをクリアにするためにある程度の時間が必要になる。

企業でコーチングをしていたときに、1日何人ものクライアントとご一緒していたもののその一つ一つにクリアな状態で向き合えていなかったという反省と、自分の発揮しているパフォーマンスに対する定性的・定量的な評価から、1日や1ヶ月でセッションを持てる人数というのはある程度限定する必要があると感じてそうしてきたが、エンパスという体質を照らし合わせてみると、やはり私には「リセット」や「休息」の時間が多く必要だということを改めて実感している。

こうして、日本語ではない言語、かつフラットで風通しの良い土地を持つオランダに生活の拠点を置いているのも、無意識に自分の特性に合った(もしくはストレスの少ない)場所を選んだ結果なのだと思う。

それにしても、どうもここ数週間でこのエンパスの資質が強く発揮されるようになっているように思う。感受性が豊かで、共感をしやすい、思考のプロセスをトレースするという特性は以前からあったが、他者に対する共感覚のようなものが強くなり、結果としてコントロールしきれない部分が出てきてしまっていた。

そういえば以前、スピリチュアル系のメンターの方に、「他者とのエネルギーの境目がなくなりやすい体質なのでエネルギーシールドをつくれるようにした方がいい」と言われ、そのための瞑想を実践していた時期もあったのだが、最近はそれを怠ってしまっていた。

このあたりには人に説明が難しい。一般的に人は「私が話したことで嫌な気分にさせてしまったらごめんなさい」とか、目には見えないものに理解のある人であれば「エネルギーを移してしまったかも」と気遣ってくれることはあるが、さすがに「いやいや、私が、エネルギーシールドを十分に張れていなかったんです、だから気にしないでください」と言ってもなかなか話は通じないだろう。どんなに物理的な距離があっても、感情や感覚、思考、エネルギーはそれを飛び越える。だからこそ、空間を共にしない人とのセッションにも効果があるのだが、だからこそ、必要以上にエネルギーが混ざり合わないようにする心がけが必要なのだろう。

今回起きた現象については今、「もともと持っていた資質が発揮された結果、遠心力のようなものが強く働き、これまでの自分の軸では対処しきれなくなり、軸がブレて遠心力に振り回されてしまった」という現象が起きたのではないかと捉えている。言葉で説明するのは難しいが、「先っぽにボールのついた紐を持ってぐるぐる回っていた中で、ボールが突然重くなり、紐が外側に引っ張られる強さが強くなった」と言ったらいいだろうか。さして先ほどの表現と変わっていないのだが…。

これは、エンパスという資質に限らず、様々な力に対して言えるのかもしれない。私は「本来持っている力を発揮することを後押しする」ということを自分および他者に対するテーマとしているが本来持っている力が発揮されたときに、必ずしも手放しで喜べるようなことが起こったり、楽しいかというとそうでもないのかもしれない。厳密には、力に振り回されず、軸のある状態こそが「本来持っている力」を発揮しきてれいるという状態であって、力に振り回されるのはそこに至るプロセスとも言えるだろう。

そうは言っても恐れる必要はないのだと思う。変化というのは必要な準備が整っているからこそ起こるのであって、変化によって起こる課題を乗り越えることができる自分はすでにいて、そちらの自分も発揮されることを待っているはずだ。

ところで、なぜ今このタイミングで私の資質はこんなにも発揮されるようになったのだろうか。そこには、インテグラル理論で言うところの4象限、自己の内面・外面、周囲との関係性や環境という要素が絡み合っているのだと思うが、それに加えて「時間」や「蓄積」が関係しているのではないかとも思う。「機が熟した」とも言える。

ただ、時間の経過や経験の蓄積というのは一般的に納得感のある要素ではあると思う一方で、そこには時間や経験の蓄積とは全く関係のない「発揮」というメカニズムがあるのではないかという気もしている。資質は、いつもそこにあったのだ。発揮されるのを待っていたのだ。その発揮には、絵を描くという非言語的な活動を始めたことや、自分自身のコーチとのセッションで身体感覚にアクセスすることが増えているということもあるだろう。もしかすると、あのザフィアチャイムの、異世界の扉を開けるというスーフィーの音色が、閉じていた扉を開けたのかもしれない。

それぞれの人がそれぞれの資質を持ち、それは発揮されることを待っている。中には、強烈に発揮されたり、自分がそれに振り回されると苦しさを感じたりすることになるものもあるが、資質を安心して活かすことのできる環境や、軸の強さを身につければ、きっとそれは、自分にとっても他者にとっても贈り物のようなものになるはずだ。

今回の経験を通してこれまでに学んだことは、「突然資質が発揮されるということがある」ということ。「資質が発揮されたときには大きな遠心力が働き、それに振り回されない軸が必要となる」ということ「正体不明のものに名前がつくと安心する」ということ。

そして、今回の出来事は、何か自分のコーリング(使命)とつながっているのではないかという気がしている。少し前から、セルフチューニング(自分で自分の状態をととのえる)ことをテーマとした情報を発信するサイトを公開する準備をしているが、これはどうやら自分と同じようにエンパスの資質を持ち、ときに人の感情やエネルギーから影響を受けるということが起こるために、休息や調整がしっかりと必要な人に向けたサイトになりそうだ。

エンパスの資質を発揮する人が増えている(のではないかと想像している)という現象は、物質や情報が増えすぎた、地球からの警鐘なのではないかと言う気がしている。少し先の未来では、「少ないこと」や「静けさ」こそが価値になるだろう。「つながり」の意味も更新されるに違いない。2020.2.22 Sat 9:44 Den Haag