566. 曖昧な目覚め

「それについてもっと曖昧に捉えてみるとどうなりますか」ふとそんな質問が思い浮かびました。
それはきっと、読んでいた友人の日記に、曖昧性についての記述があったからだと思います。ものごとについても人についても、「こうだ」と思っているものの境界線をやわらかなものにしてみると、これまでとは違ったものが見えてくるかもしれない。そんなことを考えていたので、きっと曖昧性という言葉が心に留まったのでしょう。言葉によって世界に線引きをしていく、体験によってものごとに意味付けをしていく。そんなことを繰り返していき、あるときから今度は自分が規定している意味を解体していく。それが人生なのかもしれない。なんてことを考えています。解体すると言っても、境界線のなかった世界に戻るのではなく、以前とはまた違った世界が見えるのではないかと思っています。自分さえも、世界との境界線がなくなったときに、どんな景色が見えるのでしょうね。

こうして書くと、つくづく私は視覚的にものごとを見ているのだなと気づきます。しかし不思議なのですが、以前は聴覚で捉えたものがビジョン(視覚的なイメージ)となって現れたものが、最近は感覚となって現れるのです。もう少し具体的に言うと、コーチングセッションのときに、クライアントに生まれる感情やそのおおもととなる体験が、身体の中に感覚として起こるようになってきました。それは私にとっては視覚的なイメージとほぼ同じ意味でもあって、「感覚の景色」が広がるような、そんな感じがしているのです。そうだ、以前は、言葉が景色に変換され、頭の中に広がっていたんです。それが今後は言葉が身体の感覚になるようになってきました。これはおそらく、音声のみでセッションを行なっているからこそ起こる感覚で、画像があると起こらないのではないかと想像しています。私にとって視覚的な刺激というのはものすごく強くて、それを処理するのにかなりのエネルギーが使われます。その割に、視覚情報からは表面的なことしか得ることができない。一方で聴覚情報というのは、視覚で得る以上のもの、言葉になっていないものをキャッチすることができるように感じます。そんな中、視覚的なイメージを通り越して、内的な感覚が立ち現れるというのは自分にとっても興味深い現象です。

これは、「共感」の一つなのでしょうか。頭で「そうだなあ」と思うのではなく、文字通り、感覚として共にするとうい感覚が生まれています。

内的な感覚が立ち現れるからこそ、身体を、強くしなやかな状態に保つというのが重要なのだということを改めて感じます。

そんなことを考えたこともあり、今日は久しぶりにランニングをしました。と言っても、近くの運河沿いの通りを、行って戻ってするだけなのですが。お昼頃には久しぶりにヒョウが降って、「冬の名残が一気にやってきたかしら」と思ったけれど、そのあとはまたすっかりお天気になって、「これはもう、春の風が混じっているかなあ」なんてことを考えていました。そういえばここ1ヶ月くらい「春」のことを毎日考えているかもしれません。季節としての春。そして、人生としての春。人生の春というと、なんだか浮き足立った感じがするけれど、もう少し静かで、でも喜びに満ちた、そんなときがそろそろやってくるのではという気がしているのです。これまでも今も、嬉しいこともたくさんあったし、大変なこともたくさんありました。そのときそのとき目の前にあることを感じる幸せな時間を過ごしてくることができたと思うのと同時に、それでも確かに人生にも「冬」はあって、そのときはいつもより幾ばくか気温が低く、陽のあたっている時間が短いなと感じるのだと思うのです。季節が巡るように、これからも人生も巡っていく。「めぐる」ということ自体が、やはり人生であり、美しいものだと思います。

そういえば、今朝見た月はもう、半月を通り越して、お椀のような形に近づいていました。満ちた月からあっという間に月も巡っている。あのお椀には、見えない星屑がいっぱいに浮かんでいるのかもしれません。

数日前に実家の犬に宛てた手紙のように日記を書いたら、なんだか心地よくてもう少しこの形を続けてみたくなりました。と言っても、飽きっぽくて気まぐれな私には約束も一貫性もありません。ただ、誰かに向けて書くことが、今のわたしらしいと思うのです。

本を書きたいと思ったのは、一人で孤独に戦っていると思っている人に向けて、「大丈夫だよ」という言葉を届けたかったからです。届ける言葉は、あたたかく強いものでありたいと思っています。こんな風に、誰かにお手紙を書くように、原稿もまた少しずつ書いていくことができるでしょう。

向かいの家のリビングには明かりが灯り、人が集まり、食卓の中央に置かれた大きな器のようなものからは蒸気が上がっています。男性が中の麺のようなものを持ち上げると、一緒にふわーっと白いもやが広がります。

いつも向かいの家のリビングのことを書いているけれど、覗き見しているわけじゃないんですよ。オランダの人たちはあまりカーテンを閉めないので、家の中が丸見えのことも多いんです。特に中庭に面した窓には、色々な人の人生が映し出されます。私はそんな風に「色々な人生」が感じられることがとっても好きです。世界が、「自分が見ている景色」だとすると、これも全て私の中に立ち現れていることなのでしょうか。それでもきっと、SF映画のように、冷凍保存機の中で夢を見ているのではなくて、確かに私はここに目覚めていて、世界はそこにあるのだと思うのです。2020.2.19  18:22 Den Haag