564. 感覚とともに、青い毛糸をほどく

今日は朝からバタバタと強い風の音が聞こえていました。
見ると、1階の庭に白いプランターが散らばっています。
隣の保育所の庭にある小さなおうちも場所が移動しています。
今は雨もバタバタ。先日の嵐よりも強い雨と風がやってきているかもしれません。

最近は、言葉や意識の土台となる身体の感覚とどうつながるかということを考えています。
認知の枠組み(物事の捉え方)を成長させていくためには、言葉を使うことは大きな後押しになるでしょう。より複雑な思考ができるようになるのも、言葉を通じて、思考を検証できるものにするプロセスがあってこそだと思います。

しかしそれは時に、頭を身体から分離させ、身体感覚の伴わない、仮想の世界を生きることを後押ししてしまうのかもしれないと思うのです。いや、認知の枠組みを成長させていくためには言葉だけでなく身体感覚が欠かせないのかもしれません。そもそも「成長」というのはある一つの物差しやテーマを高めていけばいいというものでもなく、織り合わされた様々な色の糸を、それぞれ育てていくようなものだとも思うのです。(これはインテグラル理論でいうところの「ライン」の考え方でもあると思います)

こうして日記を書いているときも、放っておくと、身体感覚は薄れ、思考は上へ上へと昇っていく。
毎日たくさんのことを考えているから、だからこそこの時間はもっともっと身体の感覚に意識を向けてもいいのかもしれません。

今私の中には、青い毛糸をぐるぐる巻きにしてボールにしたようなそんなもやっとしたものが浮いています。毛糸は細めで、モヘアのようにふわふわと、細い毛が出ています。この毛玉は、どうやらこれまでぐるぐると毛糸を巻きつけてきたからできたようです。テニスボールくらいのその毛玉をそっと手にのせてみると、手のひらから少し浮いている状態になり、微かなぬくもりを感じます。この毛玉を、私はしっかりと手に持って、あたためたいと感じます。手のひらにのせたまま、少し上にあげ、おでこを近づけてみると、おでこの真ん中にもほんのりとあたたかさを感じます。この毛玉は、「実は簡単にほぐれるんだよ」と言っています。実際に固く巻いてあると思った毛糸がふわりとほどけて水の中にいるようにゆらゆらと動く様子を見せてくれました。それが本来の姿なのだけれども、今もひとつの形なのだと、そんなことを教えてくれているようです。青い毛糸の球を、もう胸の中に戻すと、毛糸から出ている細い糸が、毛細血管のように、細く、すっと、全身に広がりました。もやもやの塊だと思っていたものは、実は、身体全体が感じる微細な感覚が集まってくる、集合場所のようなものだったのです。

しばらく、雨の音を聞いていました。
目を開くと、斜めに落ちてくる小さな水の粒たちが見えました。
空中でぶつかり合ってその行き先を変え続けています。

リビングに置いてある、万葉集から、春の嵐の歌を見つけてみたい。そんな考えが浮かんできています。2020.2.26 Sun 11:09 Den Haag

565. 個の意識と社会の空気

降り続く雨の中、久しぶりに紙の書籍に読み入っていました。
河合隼雄さんの書かれた『中空構造日本の深層』は1999年に初版が発行され、手元にあるものは11版、2019年発行と書かれています。

20年前に書かれたものだけれども、現代社会を顕著に反映していると感じます。そしてこの中で引用されている思想家や心理学者の言葉はもっともっと以前ものであるにも関わらず、やはり「現代社会」に当てはめても強くうなづけるものだと感じるのです。

これは一体どういうことなのでしょうか。人間の本質は大きくは変わらず、一方で、各時代で「この時代特有のもの」と捉えているのか、それとも、特徴的な病理のようなものが社会を蝕み続けているのか。

人の直面する課題が個人の意識から生まれるものなのか、それとも社会全体の空気のようなものから生まれるものなのか。今のところ、社会全体の空気は個人の意識の集合であり、それらは相互に影響を与え合っていると思うのですが、それがリニアに関連しているかというとそうでもないような気がしています。個人の意識の集合では起こりえないことが、社会全体の空気として起こるような感覚を持っていると言ってもいいかもしれません。

それは私が普段、1対1で人と向き合っているということもあるでしょう。深く向き合うほどに、人は純粋な想いでできていると感じます。「全ての行動は愛か恐れから来ている」という話を聞いたことがありますが、愛と恐れは相反するものではなく、その根底にあるのは自分自身の存在に対する抱擁を求める気持ちではないかと思うのです。中にはそれが「濁っている」ように見えるものもあるかもしれません、例えばそこに透明度という一つの基準を用いたならば、確かにその基準の上で「濁っている」ものもあるでしょう。しかしそれが、その人がこれまで体験してきた世界が凝縮されたものだとすると、そういう「純粋性」があるのではないかと思っています。

それが、集団もしくは社会という単位になったとき、実際に体験したことではないものに対する「想像」から抽出される何かが含まれ始める。そしてそれが一人一人の思考に知らないうちに染み込んでくる。

毎日目にするニュースや動画が、私たちの無意識に大きな影響を与えているということを、それらがない世界に身を置いていると強く感じます。多様な社会に生きているようで、自分がすでに持っている検索ワードの延長、もしくは意図して発せられている強いメッセージの流れの中にいる。気を抜くと、あっという間に精神回路の中に入ってくる毒を持った濁流の中にいるといってもいいかもしれません。

こんな風に書くと、随分と現代社会に批判や悲壮を感じているように思うかもしれませんが、希望を失っていないからこそこんなことが書けるのだと思っています。今目の前にある世界も、十分に素晴らしい。そう思っています。そんな中でも自分が向かいたい方向性があるとすると、それは自然な姿、全体性が発揮された姿です。

そこは決してユートピアではなく、私たちは生きることを通じて出会う、生々しい葛藤や衝突に出会うことになるでしょう。しかしそこから生物としてのみなぎるようなエネルギーが発揮されるような、そんな生を体験できるのではないかと思うのです。

春が近づき、植物たち、動物たちの、生のエネルギーが大地から湧き上がってきていることを感じています。2020.2.16 Sun 18:10 Den Haag