561. 中庭の木の枝に蕾を見つけ

書斎の窓から、庭の木に目をやる。枝の先に小さな丸いものがついているように見える。あれは花の蕾だろうか。確かあの木には、白い花が咲いたはずだ。この家にやってきた一昨年の秋、部屋を案内してくれたオーナーのヤンさんが、この中庭春には白い花が咲いてキレイなのだと教えてくれた。そして昨年の春、確かに白い花があの木に咲いた。中庭の他の木にも白い花が咲いていた。春の終わりに小さな花びらが舞う様子を、今年はパートナーとともに見ることができるだろうか。

ヤンさんが、何かを思い出したように遠い目をするのは、亡くなった奥さんを思い出しているときなのだということを後になって知った。

隣の保育所の庭では子どもたちが遊んでいる。

数週間前、この時間はもう真っ暗だった。季節は確実に巡っているのだということを何度も実感している。

今日はお昼すぎにソファ-でうたた寝をしたときに不思議な体験をした。半分起きて夢を見ていた。夢とハッキリ認識しながら夢を見ていたと言った方がいいだろうか。目覚めたときなのか、現実世界に意識が戻ったときなのか、とにかくそのとき、私はその夢で見ていたことをとてもハッキリと覚えていた。

しかし今はそれがもう遠い感覚になってしまっている。覚えているのは聞いたことのないお金の単位を口にしていたということだ。

午前中に仕事を終え、近くのオーガニックスーパーまで出かけたときに、真冬の風とは違う、少しあたたかな空気を感じた。気候の変化についてもこの冬何度も日記に書いてきたように思う。結局ハーグではまだ雪は降っていない。冬の寒さが随分と穏やかだったように感じるのは、この家があたたかいせいもあるのだろうか。

これまで私は対面でのコーチングセッションは行っておらず、それは今のところこれからは行うつもりはないのだけれど、言語以外の、絵や音を用いたセルフコンディショニングの後押しのようなものを今後対面で行なっていきたいという気持ちが芽生えてきた。それは私の中での多面性を育てるという面もあるが、世界からの要請を感じるという感覚の方が大きい。

より高度に、複雑に。人は内側からもそんな欲求があり、外側からもそんな圧力があるように思う。それはある意味自然なことなのだけれど、その土台の部分が不安定なまま高く高く上へ伸びようとしているのではないかということを感じている。意味や言葉になる前の原初的な感覚や表現。それらが、豊かに耕されることを必要としている。そんな声が聞こえてくるのだ。

意味になる前の活動を、意味をつけずに行う。それは、意味のあるものが良しとされる現代社会においてチャレンジングなことかもしれない。

癒しが起こるかもしれないし、成長が起こるかもしれない。しかしそれらは結果として起こることであって、意図して起こすものではないのでないだろうと思っている。

どんなことも真摯に向き合えば、様々なものに共通する真理にたどりつく気がしている。それが、自然とともにあることであればなおさらだ。

こうして日記を書く行為もその一つだろう。

気づけば、庭で遊んでいた子どもたちはいなくなり、中庭にも、小さな書斎の中にも、静けさが訪れていた。2020.2.14 Fri 18:05 Den Haag