558. 免許証が必要な大学院の卒業試験の夢

今日は見た夢を久しぶりにハッキリと覚えている。夢の中で私は大きなオフィスビルのような建物にいた。そこで大学院の卒業試験を受けている。たくさんの受験生がいて、どちらかというとそれは大学の入学試験のようだったが、夢の中の私はその試験を大学院の卒業試験だと認識していた。

一つ目の試験(おそらく数学)が終わり、近くで食事をして(このへんは記憶が曖昧だ)建物に戻る途中「この試験が終わると、大学院卒業ってプロフィールに書けるんだなあ」と思い、それを通りがかりに会った知り合いにも「大学院卒業って書けるんだよね」と声をかけた。同時に、それが夢だと分かっている自分が「嬉しいポイントはそこなの!?」と心の中で突っ込んでいた。「やっと終わるんだ」という気持ちを抱えながら建物の入り口に着くと、入り口のホールのようなところに人がごったがえしていた。どうやら試験会場入場のための列ができているようだ。ホールの奥の列が動いていたので、そこにいる人に続こうと列の後ろに並んだつもりが、振り返ると数人人がいて、列の間に割り込んだことが分かった。割り込んだことを謝り、列の後ろに行こうとするも、後ろの人がそのままどうぞと促してくれるので、そのままもう一度前を向いた。すると私の数人先に、人が割り込んできた。その人は、大声を出して誰かを呼んでいる。見上げると、ホールの中にある階段をたくさんの人が昇っており、その中を一人、足早に登る男の人が見えた。白い服が汚れているように見える。大声を上げている人は階段を昇る人を追いかけているようだ。その様子を見ながら、列に並ぶ人が、手に何か持っていることにも気づく。それはどうやら免許証のようで、私の並んだ列は、失効した免許証を持っている人が入場するための列と分かった。列を離れ「次の試験は免許証がないと試験を受けられないのか」と考えながら、次の試験の開始予定が何時なのかを確認しようとキョロキョロしていると、ロビーの中に置いてある立て看板に、次の試験が12:00からと案内があるのが見える。前の試験が終わったのは10:00。そこから食事に出て戻ってきて、30分ほどが経った頃のはずだ。と目算する。今から実家に免許証を取りに行ってここまで戻ってくるのには1時間以上はかかるはず、父か母に持ってきてもらうことはできるだろうか、などと考えながらもう一度案内板を見ると、どうやら次の試験は10:38にはじまるらしく、もうどうにも間に合わないことが分かる。「免許証、持っていないよなあ」と、改めて何枚かカードが入っている普段使っているスマートフォンケースを見るが、その中にあるのは現実世界と同じく、銀行のカードが一枚と、交通機関のカードが一枚、滞在許可のカードが一枚だけだ。どうしたものかと顔を上げると、ホールの左端の列に並ぶ人がだいぶ少なくなっている。しかし、受付カウンターのようなところを通って試験会場に向かう人が多いかというとそうでもない。一定人数を超えたところからは、抽選で当たった人だけが試験を受けられる仕組みになっているそうで、そこにいる人たちは抽選の順番を待っている人たちだった。「免許証がない上に、試験を受けることができるかが抽選で決まるのであれば、私はもう無理だなあ」と思ったところで目が覚めた。2020.2.11 Tue 9:21 Den Haag

559. 「料理は好きか」という厄介な質問について

「幸せなら手を叩こう」の歌声がまた聞こえてきた。数日前から何度かこの歌と、歌に合わせて歌う声が聞こえてくる。隣の保育所から聞こえてくるもので、ここ数日の様子を振り返ると、日々何かしらの歌を歌う時間があるようだが、これまで全くそれに気づいていなかったことが不思議だ。

今朝は白湯を飲んだ後に昨晩キッチンに残していた洗い物を片付けながら料理について考えていた。正確には「料理は好きか」という質問についてだ。これに対して私は、「苦手だ」と答えることにしている。そう答える理由は、実際に料理がさほど得意ではないということもあるが、多くの場合「料理は好きか」と聞く人はどちらかというと料理好きなことが多く、聞かれた通りの「好きか(嫌いか)」の軸で「あまり好きではない」もしくは「嫌いだ」と答えると、なんとなく相手の好きなものを否定したような感じになってしまうかなという想像がある。そしてもう一つ、私の中に「女性は料理好き(もしくは料理上手)であるべきだ」という枠組みがあって、それに対して「好きではない」と答えるのはなんだか気が引けるのだと思う。(これは「子どもは好きか」という質問についても同じ感覚を持っている女性はいるのではないかと思う)小さい頃から運動も勉強も、工作や手芸などのものをつくることも好きだったし得意だったが、料理にはあまり興味が向かなかった。幼稚園のときにクリスマス会のようなものでデザートを使うために包丁を使う機会があり、私はそのとき指先を切ってしまい、また同じクラスの男の子が(おそらく指を落とす)怪我をしたことがあったので、それがきっかけで包丁を扱うのが怖かったというのはあるが、そんなトラウマめいたものが根本的な原因ではなく、ただ自分の嗜好には合わなかったというだけだと思う。

それでもあまりに料理に関して無知な私を見かねた母が、私が大学生になったときに料理教室の費用を出してくれて、1年ほど料理教室に通った。そのときに包丁の使い方をきちんと習ったこともあり、今は包丁が怖いと思うこともない。「冷蔵庫の中身で美味しいものを作る」というクリエイティビティはないが、「とりあえず食べれるものをつくる」ということはできるし、料理本の通りに作ればある程度美味しい料理ができるということもわかったので料理教室に通ってと良かったとは思っている。

しかし、料理が好きかというと特段そうではない。私はそれは例えば「スノボが好きか」という話に近いんじゃないかと思うのだが、「スノボが好きか」という質問に対して「苦手です」と答えると「ああそうなのね」という感じになるが、なぜだが料理に関しては「苦手です」と答えると「大丈夫だよ」「できるはずだよ」ということになることが多いように思う。料理が特段好きではない人はわざわざそんなことは聞いてこないので、「料理が好きか」と聞く人の多くは料理好きで料理好きな人にとっては「大丈夫」「できる」なのかもしれないが、「苦手」と答えたのは質問されたからであって「苦手だけどどうしよう」という相談をしているわけではない。これが「好きではない」と答えたら、話の流れは変わるのだろうか。「気を悪くさせてしまうかな」というのは取り越し苦労であって、料理好きの人にもあまり気にされないだろうか。

私の中では「料理は好きか」という質問は「お酒は好きか」という質問にも似ている。結論としては「特段好きではないが、相手によっては楽しい」ということだと思う。「お酒そのものが大好きだ!」「一人でも飲む!」という人を除いては、「お酒」というのは「お酒を飲む場」とセットになって、誰と飲むか、どんな風に飲むかによって、好き・嫌いや楽しい・楽しくないを感じるのではないだろうか。料理も私の中では、作る場と食べる場がセットになっており、好きな人と一緒であれば作るのも食べるのも楽しい時間になる。「作るのも」と言っても、やはり特段得意なわけではないので、パートナーと料理をするときも私はひやかし程度に野菜を切り、あとは調味料やお皿の準備をしたり、使い終わった調理器具を洗ったりと、アシスタント的なことしかしないのだが、それでも「エンジョイキッチンは楽しいねえ」と言いながら手際よく料理をし、私が「美味しい美味しい」とごはんを食べるのを楽しそうに見守ってくれるパートナーと出会えたことは本当に幸せなことだと思っている。

料理は一つの例ではあるが、慣習の中で身につけてきた「当たり前」が、自分にとっては呪縛となっているものがまだいくつかあるように思う。ちょっとしたことが気になるということは、「できたほうがいいのだろうな」とどこか引け目に思う自分がいるということなのだろう。

お酒については「お酒は好きですか」という質問に対して「飲みません」と答えるようになってだいぶシンプルになった。料理についても好き・嫌いや得意・苦手ではなく「しません」と答えるとそれで済むようになるだろうか。これまでは「何事も正直に全てを伝えるがのがいい。それが心と言葉を一致させることだ」と思ってきたが、最近、なんでもかんでも正直に全てを伝える必要はないんじゃないかという気がしてきてもいる。自分自身に対しては正直でありながら、何をどう伝えるかは選別をする。それを、「本音を言わない大人」になるのではない形でできるだろうか。それができるようになれば、もっと違う世界が見えてくるのだろうか。2020.2.11 Tue 10:02 Den Haag