556. アントロポゾフィーのアートセラピー -意味を持つ前に戻る-

昨日の嵐が嘘のように眩しいほどに太陽が輝き、寝室からリビングまで光の帯を作り出している。隣の保育所の庭で子どもたちが遊ぶ音が聞こえる。昨日、無残に倒れてしまっていた保育所の庭にある小さなおうちも、元の状態に戻されている。

今朝目覚めたときはまだ外は青暗くて少し風も吹いていたので、今日も一日嵐が続くのだろうかと思っていたが、もうすっかり嵐は過ぎ去ったようだ。

一昨日、オランダでアントロポゾフィー医療に携わる精神科医の方から聞いた話を、何度も反芻している。それは粘土を使うアートセラピーの話だ。アントロボゾフィー の粘土のアートセラピーでは、まず基本の形を作っていくという。基本の形というのは、正四面体(正三角形が4枚組み合わさってできた立体)、立方体…と辺と面の数を増やして、最後は球体になる。時間をかけて順番に決まった形をつくっていく。そうするとそのプロセスを通して「その人らしさ」がものすごく現れるそうだ。そして今の内面の状態も現れてくる。

頭で考えてばかりの人は、粘土の立体が上へ上へと伸びていくものの、土台は不安定になる。さらに高さを出そうとするとどうにもこうにも上手くいかなくなり、土台が不安定だったことに気づく。そして土台を安定させる。そのプロセスを通じて「自分の状態」に気づくという。

決まった形ではなく自由につくるというプロセスでも同じことが言える。例えばパアーっと外に開いているお花をつくる人は、エーテル体が外に開いていて、その分、自分の内を見なくなってしまっている。それが、最初につくったものをもとに、それを見つめ、そこにある形を捉え、その特徴を取り出していくと、だんだんとシンプルになり、自然と作り出すものも閉じていくのだそうだ。アートセラピストはそれを誘導するのではなく、じっくりと見守り、時に問いかけをしていく。

つくっていくプロセスを通じて自分自身が変化していくというのは興味深い。意味のないものをつくるのが大事という話も印象的だった。複雑になったものを、赤ちゃんのときのような状態に戻していく。それは、さながら成長のフラクタルを逆回ししていくようなものだ。ある意味、バラバラのものを統合していくということは、立体になったものがさらに一つの点になるというフラクタルが成長していく向きへの変化にも捉えられるが、私が受け取ったニュアンスの限りでは、どちらかというと、元の点に戻していくという意味合いだったように思う。これについてはまた、その精神科医の方とも、意識の成長の専門家の方とも話してみたい。

アートや動きを用いたアプローチにはとても興味が出ているが、同時に言語を用いたアプローチへの関心も高まっている。両者は一見全く違ったものに見えているが、もしかしたらそれらを架橋するものがあるのかもしれない。バーバル・ノンバーバルという境界をゆるやかなものにしていくというのが今後「あわい」のテーマかもしれない。

ライデンにはアントロポゾフィーのアートセラピーの専門学校があるそうで、そこにも興味が出ているが、まずは自分がアートセラピストもとで、自分に対するアートセラピーの実践をしてみたい。「いろいろ体験してみて、自分がいいと思ったものを今度は人に提供していけばそれで大丈夫ですよ」という言葉にも勇気をもらった。もちろん、専門的な知識を身につけるに越したことはないが、結局のところ大事なのは実践と実感なのだと思う。

「土台」ということでいうと、今の私にとっての「土台」は「暮らし」なのだということに、先ほど日本にいるパートナーと話をしていて気づいた。新しい学びも、協働も、日々の暮らしという土台がしっかりしているからこそ積み上げていけるものであり、今は無理に上に積もうと不安定になってしまうように思う。

「暮らし」と言っても、そんなたいそうなことではない。自然のリズムとともに活動をし、大きな循環の中に身を置き、まずは手の届く範囲にあるものを大切にする。そう考えると、ビジネスで成功している人が途中で上手くいかなくなっていくという理由も分かる気がする。上に上に。そうすることで、土台がスカスカになってしまっている場合もあるのだろう。意識の成長も同じだろうか。背が高くて大きな木は、それだけ、根っこも地面深くまで、広がりを持って張り巡らされているだろう。

そういえば最近髪の毛が静電気で広がるが、そんなとき、地面を触るといいらしい。最後に土を触ったのはいつだろう。裸足で地面を歩きたいという思いが湧いてくる。ハーグに春がやってきたら、こぞって出かけるオランダ人のように、太陽の光と土の力を存分に味わいたい。2020.2.10 Mon Den Haag

557. 異国で髪を切ってもらいながら考えた守破離の話

気づけばまた雨が降り出していた。空には雲が広がっているが、外はまだうっすらと明るい。明るいと言っていいのだろうか。暗闇の始まる手前、灰色のフィルターがかかった写真を眺めているようだ。

今日はお昼過ぎに近くの美容院に髪を切りに行った。美容院というか、散髪屋と言ったほうがいいだろうか。

少し前から髪の毛の状態が気になり始めていた。「髪には霊的な力が宿る」という話や、「髪を十分に伸ばして頭頂に巻きつけるとクンダリーニのエネルギーを上げるのに役にたつ」などと言った話を読み、髪を伸ばし続けることを考えていたのだが、それにしても前回日本で美容実に行ってから随分と時間が経っており毛先がまとまらなくなっていることもあり、伸ばすにしても綺麗な状態に整えたいという想いが強くなっていた。ヘアブラシやシャンプーを変え、それでも少し髪の毛の状態は良くなったが、静電気の発生がひどく、どうにもこうにも広がってしまう。というわけでオランダに住む日本人がブログでおすすめしていた美容院が近くにあったこともあり、髪を切りにいくことにしたのだ。

長いこと髪を切っていなかったのは、オランダで良い美容室に巡り会えていないということが大きい。ドイツにいたときも髪の毛が肩くらいの長さなこともありセルフカットを続けていたのだが、いつもきのこのように広がったスタイルになってしまうので、もう少しどうにかしたいと思って昨年の初め頃にハーグの美容室に足を運んだ。

しかし、結果はやはりきのこだった。私はどうやら髪の毛が多いようで、そんなことにもこれまでの人生で気づかないでいられたくらい、日本の美容師さんたちは上手にヘアカットをしてくれていたのだ。他国の美容師さんが特別下手かというとそういうわけではないだろう。私の髪質と毛量に合ったカットというのが、日本以外の国ではあまり必要とされないのではと思う。

そんなわけでオランダで美容室に行くことを諦めていたのだが、新しい季節を前にして少しスッキリしたいということもあり、前回とは違う美容室に行ってみることにしたのだった。

結果としては…うーん、ギリギリきのこにならなかったくらいだろうか。ギリギリきのこになったくらいだろうか…。前回より少し長めに切ってもらったので、髪の毛の重みで広がりが少なくなり、結果としてあからさまキノコになるのは回避できたという感じだろう。しかしやはりこれは、髪の毛を梳かなければどうにもならないのだろう。カットをしてくれた男性がまっすぐに髪を向き合って切ってくれていたし、シャンプー込みで25ユーロというのも、日本の相場よりもだいぶ安く、よくわからない相手の髪をここまで切ってくれたのだから不満があるわけではない。あとは私の髪質と毛量の問題だ。前回日本でかけたストレートパーマが髪を痛めているような気もするので、ここからは自然な形でキレイな髪の毛になるようにケアをしていきたい。

ケアと言っても大切なのは、日々のシャンプーの質、乾かし方、そして一番は食べ物だろう。髪の毛に静電気が起きやすいのは、着ているものの素材などもあるが、その人の体質もあるという。タンパク質や青魚・クルミやナッツなどは血液をサラサラにし、そうすると血液の中のマイナスイオンが増えて放電されやすくなるというが本当だろうか。日本語空間の情報は怪しいところもあるので、できればこのあたりは英語できちんとした情報を入手したい。

間違いなく言えるのは、私は電気を溜めやすい体質だということだ。実は今まで、大事な場面で電気機器を触り、機器を止めてしまったという経験が2度ある。具体的には舞台などに使われている音響装置に何気なく触れたところ、電源が落ちてしまって音が止まったりイベントが中断されたりしたことがあるのだ。(そのときは音が止まったことによって混乱が起こり、そんな中、自分が触ったためだと言い出すことができなかった。それは、触ったところが悪かったのではないかという見方もできるが、特別何か強い力でボタンなどを触ったつもりもなく、二回とも、何気なく触れたというだけだったので、後で、電気的なものによるトラブルが起きたのだと気づいた)

繰り返しになるが、今後髪の毛とは、自分の髪の特性を知って、過度の期待をせず、良い形で付き合っていきたい。

一つ、髪を切ってもらっている間に気づいたのは、「自由なスタイルができるのはある程度土台があってこそだ」ということだ。以前、日本の美容室に行ったときにあごより少し長いくらいで長さの揃ったボブにしたいと思っていたが、前側の毛が短く、少し後ろ下がりのボブになった。それが今回は、肩の下くらいまで伸びていたので、(仕上がりの広がり具合は脇に置くとして)あごの下くらいで揃ったボブに切ってもらうことができた。当たり前の話だが、全体がある程度の長さになっているからこそ、それを好きに切ることができる。「こんなスタイルにしたい」というのがあっても、一旦は少し伸ばすからこそバランス良くスタイルをつくることができるのだ。これは、守破離にも近いだろうか。一旦はある型を身につけた上でそれを破っていく。しかし、「自分らしさ」が重視されている昨今ではいきなり「自分らしい」何かをつくろうとしてしまう。ある意味「自分らしさ」という慣習の中にいるとも言えるのだが、いきなり大海原に放り出され何をしていいかも分からずに困惑する若者が増えているようにも思う。

あれは社会人になった1年目だったか、不動産管理の仕事をしていたときに、技術系のマネージャーが「量を積み上げればその中に自分らしさが自ずと現れてくる」ということを教えてくれたことがあった。「量質転化」(一定量を積み重ねることで質的な変化がある)という考え方には賛否両論あるようだが、少なくとも、「自分らしさ」のようなものは、それを探そうとして見つけられるものではなく、目の前のことに集中することを続ける中で、自然とにじみ出てくるものなのだと実感している。

何の話だっただろう…。そうだ、今日は美容院で髪を切ってもらいながら「一度何かの型に沿ってみると、そこから望むスタイルをつくることができる」ということを思ったのだった。

雨は止んだようだが、まだ風は吹いている。向かいの家の家族が揃ってリビングで食事をしている。私もそろそろ、食事の時間にしよう。2020.2.10 Mon 18:38 Den Haag