554. 嵐の中で考える雨女のこと、日本のこと

ゴオー、ゴオー、と風の音がする。キューキューキューとカモメの声がする。

ガー、と何かが壁を削るような音がする。カーンカーンカーンカーンと、教会の鐘が鳴り響く。

今日はオランダに強いストームが来ているという。今日はナルクオランダという、時間預託の制度を使ってボランティア活動をしている団体の勉強会に参加するためにArnhemというドイツの国境付近の街まで行こうとしていた。片道3時間近くかかるが、だからこそ、何かの機会に観光も兼ねてまだ訪れたことがない街を訪れてみたかった。オランダでボランティアをした時間をポイントに変え、例えば日本に住む親の介護に対するポランティアの依頼に使うこともできるというナルクの制度にも興味があるので、それについて話を聞いてみたいとも思っていた。

昨日までは出かける気満々で、持ち寄りのためのどら焼きを作ろうかを考えていたくらいなのだが、昨日オランダに住む知人から「明日はストームが来る」ということを教えてもらい、調べてみると「外出は控えるように」という警告まで出ていたので、外出を取りやめることにした。オランダでは水害以外の自然災害はほとんどない。聞けば、ストームも、そんなに頻繁に来るものではないという。もともと日曜は家の前の人通りが少ないが、それがさらに、人も車も(もちろん自転車も)ほとんど通らない状態になっている。天気情報を検索するとオランダ全土が真っ赤な警告で染まり、北部と南部の街の一部は、それより強い、Extremeという最も高い警告のピンク色で塗られている。

ドイツに住んでいるときも、強いストームが来たことがあった。ちょうどそのとき日本から来ていた知人とフランクフルトにある展望フロアのある高いビルに登ろうと思っていたが、ビルまで行ってみたところ強風のために展望フロアが閉鎖されていたということを覚えている。

ストームというのは日本人には馴染みがない。台風のように目があるわけでもなく、明確な定義があるわけでもなく、「強い雨と風」を表すそうだ。それが、オランダ全体、言うなれば九州全体くらいのエリアに吹き荒れるというのはどういう現象なのだろうか。

そういえば、昨日、『天気の子』を見て感じた疑問をストームのことを教えてくれた知人にぶつけてみた。まずは、「雨女」「晴れ女」という概念はオランダにはあるか。ないそうだ。そんな気がしていたが、やはりそうなのだ。オランダは思った以上に雨が多い。湿気が少なく、私は家で仕事をしており雨が降っているとよっぽどの理由がない限り外出することはないので雨が頻繁に降ること自体はさほど気にならなかったのだが、それにしても昨年の秋から冬にかけては毎日雨の日が続き、「この時期は日本にいるのがいいかもなあ」なんて考えたりしていた。オランダの天気は変わりやすい。それに対してオランダの人たちは「ああ、雨が降っているな」とそれだけなのだそうだ。雨に対する好き嫌いのようなものは人によって差があるだろうけれども、少なくとも「私がいるから雨が降る」「私が雨を呼んでいる」などとは思わないのだろう。しょっちゅう雨が降る場所でそんなことを考えていたらキリがない。

そして、「神隠し」についてもピンとこないという。

そうなると、「晴れ女の能力を使いすぎたら神隠しに合う」という設定自体、なんのこっちゃである。こっちの人にわかりやすい形に編集するとすると「魔法の杖を振って『メテオロジンクス・レカント!』と唱えれば、悪天候がおさまる」「でもその魔法を使いすぎると身体が透明になってしまう」という感じだろうか。(『メテオロジンクス・レカント』は、ハリーポッターに出てくる気象呪い崩しの魔法である)

こうして考えると、天候の変化や人が姿を消すことを誰か(神さまや特別な能力を持った人)のせいにするというのは、日本をはじめとした、ある地域の人たちの独特の考え方なのだろうか。他の国がどうかは知らないが、日本だけが際立って特異な考え方をしているかというとそうでもないような気がしている。

なぜ日本の人々はそういう精神性を持つようになったのだろうか。もしくは日本がそうなったというよりも、西洋が、全ての現象を科学で解き明かそうとしたということなのかもしれない。日本でいうと、例えば様々な自然災害が起こる中で、それをただ事実として受け止めるにはあまりに苦しいこともあり、「神さま」のような存在をつくりだして、困難を乗り越えるためにそれに依拠したのかもしれないと想像する。その精神性はナローサイエンスだけで全てを切り取ろうとするのではなく、人間や世界を全体としてとらえる姿勢や、ときに忍耐のようなものを生み出していて、それが日本という国を発展させることにもつながってきたかもしれないが、一方で、「出来事の原因を自分の中に引き受けすぎたり、起こっていることに対して評価をしてそれによって苦しむ」という現象を作り出しているようにも思う。それは人間の成長において必要なプロセスなのかもしれないが、ブッダの言葉で言う「二の矢」(起こったことに対してそれを評価したり嘆いたりすること)を受けて苦しみを増やしている人があまりに多いのではないか。

それに対して自分はスタンスとして、日々ただ自分の行いと向き合うべきなのか、それとも何か積極的に働きかけをすべきかは迷うところだ。「すべき」と思うことでやってもそれは自分自身の価値観の押し付けであって、それを向けられた人のためにはならないのかもしれない。自分でどうにかしたいと思う人と一緒に歩むというのが、私としては自然な姿だろう。

最近、世界の謎が少しずつ解けてきたような気がする。ただ毎日、静かに目の前のことに向き合い、未来に向けた謀りごとではなく、今本当に心が望むことを為し、どうにもこうにも言葉にせずにはいられないことを綴っていけばいいのだと思う。2020.2.9 Sun 10:30 Den Haag

 

555. パートナーとわたし、そして「関係性を見つめるわたし」を見つめるわたし

随分と風が強くなっていている。ゴーゴー、ピューピュー、バーーーーと、色々な音が混ざる。細かい雨が降っているのか、落ちてくる雨粒は見えないが、窓ガラスが小さな水滴で埋まっている。隣の保育所の庭には、小さな家の形をした遊具が倒れている。これは、春の嵐のようなものなのだろうか。この嵐が去ったら春がくるのだろうか。だとすると、冬はどこに行ってしまったのだろうか。

と、まだ起こってもいないことを気に病んでいることに気づく。現実は、今、嵐の中にいるということだけだ。

一昨日書いた絵を元に、もう一度、協働者とわたし、クライアントとわたしの関係性を描いてみた。そしてさらにパートナーとわたしについても絵にしてみた。ここで言うパートナーとは、日本語で言うと交際相手であり、ときに生活空間を共にするとともに、ビジネスという領域に関わらず様々なことに共に取り組む相手でもある。

協働者とコーチングのクライアントは結構違う関係性だと感じたが、パートナーとの関係性もまた違う。わたしの場合はパートナーとは様々なことを協働したいという想いがあるので、どちらかというと協働者に近く、相手との接点や生み出すものがより多様になる。そしてわたしにとって大事なのは、共にいながらも世界に開いているということだ。一部の面についてはお互いの間にのみそっと置くものもあっていいと思っているが、「二人の世界」にいるようになると具合が悪い。あたらしい人にもものごとにも共に出会い、なおかつ、それぞれが独自の出会いや時間を持ち、変化し続けているというのが理想だ。お互いがお互いの鏡のような存在になることもあるが、クライアントとの関係においては、わたしは相手を移す鏡の役割に徹しているので、パートナーとの関係性とはやはり大きく違うだろう。

もう一度、それぞれの関係性を見てみよう。
協働者とわたしについて見つめてみる。この関係性を見つめるわたしは、「協働者とともにあるとき専門家としての知見を提供しながらも、相互発達的な関係でありたい」と思っている。相手が決めたものをつくっていくパーツになるのではなく、どんなものをつくるかさえも共に考えていきたいし、つくりだすものを固定的なものにするのではなく、変化し続けるものにしていきたい。それぞれの変化があらたな可能性をつくり出す。そんな関係でありたい。だから柔軟にアイディアを変化させ、軽やかにチャレンジをしていくベンチャーのような企業と相性が良いのだろう。この関係を見つめるわたしは、専門家であり、自分自身が成長を続ける人でもある。成長と言っても、表面的なスキルを身につけるのではなく、物の見方自体を深め続けたいと思っている。

クライアントとの関係性を見つめるわたしは何を思うだろう。この関係性を見つめるわたしは、適切な距離を取ることが重要だと思っている。クライアントと信頼関係を築きながらも、現実世界に影響を与えるようなものを共に作り出すことはない。セッションという限られた時間の中で正直に心を交わし、心を照らし、でも、その終わりには踏み出す背中を見送る。「待つ」「見守る」「一緒に味わう」というのはわたし基本の在り方と考えている。協働的で、共に変化をする関係でありながらも、よりクライアントに対して自立と自律を求めるわたし。自然な自分でありながらも、プロフェッショナルとして役割を全うしたいと強く思っているわたし。

パートナーとわたしとの関係性を見つめるわたしはどうだろう。パートナーとの関係性を見つめるわたしは、一番、「そのままの自分をそうだねと認めているわたし」かもしれない。それは基本的には他の人との関係を見つめる際にもそう思っているのだが、パートナーとの関係を見つめるときは格段、曖昧さや多面性、矛盾や流動性を許容したいと思っているように思う。これは興味深い。自分に対してはそうでありながら、相手に対しても同様のまなざしを向けることができているだろうかと自分を省みる。

協働者との関係性を描いたものは時間変化も含んでいるが、クライアントやパートナーとの関係を描いたものはそうはなっていない。実際にはここに描かれたものが、クライアントとの間ではセッションごとに、パートナーとの間では日々、色や形が変化をしていく。

とくに多面性や流動性を持つパートナーとの関係性においても、絶対的な安心感というのを、大事にしたいと、これを眺めるわたしは思っている。

もう一度、それぞれの関係性を見つめるわたしを巡ってみる。

協働者との関係性を見つめるわたし:躍動感や変化、率直さ、挑戦、遊びを大事にしたいと思うわたし 共につくり、共に喜びたいと思うわたし

クライアントとの関係性を見つめるわたし:役割に徹しながら正直で率直でありたい、全体性やその人らしさや今あるものを大切にしたい、限られた時間と空間だがそれにコミットし、クライアントを送り出したいと思うわたし、影のような存在でありたいと思うわたし

パートナーとの関係性を見つめるわたし:ゆらゆらと曖昧なものを抱擁し合いたい、どんな役割も方向性も手放したい、そのままでいられる場所でありたいと思うわたし

こうして見ると、パートナーとの関係性を見つめるわたしは一番母性的というか、こうあらねばならないというものを手放して、やわらかい自分を受け止めたいと思っているように思う。(自分に対してはそれは可能かもしれないが、一方でパートナーに対してはもっと父性的な目を向けているかもしれない)

なぜ、このように相手によって、それを見つめるわたしが望むことが変わってくるのだろうか。その一つはこれまでの経験と、相手との関係性の持ち方や環境も関わっているように思う。例えば、クライアントとの関係においてわたしが「適度な距離感」を保とうとするのは、クライアントとは基本的に1対1で閉じた空間(電子空間)の中で、ときに非常にプライベートもしくはデリケートなものを扱うため、ともすれば、強い親密性やそれが行き過ぎると依存性のようなものが生まれる可能性があるためだ。同時にこれまでわたしは多くのクライアントよりも年齢が若く、特にコーチになった当初は「若い女性」と見られ、必要以上に緊張感もしくは緊張感のなさを生み出す場合があったため、「プロフェッショナル性」というのを自ら意識してつくり続けてきたという背景もある。今はオランダにいるということを最大限メリットとして活用するために「顔も見ない、会いもしない、だからこそ話せることがある」という立ち位置がいいのではと思ってもいる。コーチ・エィにいたときも、コーチには様々なタイプがいて、クライアントと会食をする人もいればそうでない人もいたが、当時の会長の伊藤守さんはクライアントとは会食をしないスタイルを取っており、わたしもどちらかというとそのスタンスに拠っていると思う。

改めて、それぞれの関係性を見つめる、3人のわたしを見てみよう。

協働者とは共につくること、変化することを大切にすべきだと思っているわたし
クライアントに対しては専門家としての立ち位置を大切にし、クライアントを見守るべきだと思っているわたし

パートナーとは曖昧でやわらかいものをそのまま受け止めゆるやかに変化を楽しむべきと思っているわたし

この3つのわたしを見つめるわたしは、どんなことを意図しているんだろう。何を美しいと思い、何を望んでいるのだろう。

ここで見えてくるのは、「それぞれの相手との関わりを通じて、それぞれの相手と自分の持つものが、それぞれに花開くようにありたいと思っている自分がいる」ということだ。相手によって自分の立ち位置や関係性を変えようとすることは、一見、一貫性がないようにも思える。しかしそれらを見渡してみると、相手の持つ力可能性を発揮することに近づきたい、そしてそのために自分が安心していられる関係性に身を置きながら、その上で正直に、率直にありたいと思っている自分がいることに気づく。自分が心と一致しながら、持っているものを発揮することが、相手が持っているものを発揮することにもつながっていると思っているので、どこかに自己犠牲のようなものがあると上手くいかなくなる。しかし、常に同じスタンスでいると安心して一致していられるかというとそうでもない。だから、相手に応じて関係性の取り方を変化させるとともに、そのバリエーションを持つことで、自分の全体性を発揮することに近づこうとしているように思う。

ここまで考えてくるプロセスにおいて、特にコーチングのクライアントとの関係性は少し断絶的なのだろうかとも思ったりもしたけれども、(今後変化の可能性があるにしろ)この関係性の持ち方はクライアントとの関係性という側面においても、全体性という側面においても必要なものであり、バランスを取っているようにも思う。

3つのわたしを見つめるわたしは「関わりの可能性」を信じていて、それに対して、自分自身の生き方を持って取り組もうとしている。断続的であれ、連続的であれ、そこにある関係性とテーマには全力で向き合い、体験を通して、自分の思考と行動を変化させていきたいと思っている。

体験的で実験的で発見的。今ここを味わいながら悠久のときを思い、その中でゆったりと起こるゆらぎを見つめる。今のところそれが、「3つの関係性を見つめるわたしを見つめるわたし」のようだ。もしかするとそんなわたしは、壮大な試みの中に生きているのかもしれない。 2020.2.9 Den Haag

クライアントとわたし
協働者とわたし
パートナーとわたし