551. 暮らしの彩度とネズミの人生

寝室の窓を開けると、隣の家の一階部分の屋根に霜が降りているのが見えた。確か年が開ける前に一度、同じように霜が降りているのを見たことがある。

まだ冬は続くとは言えそれにしても今年の冬は寒さが厳しくない。去年もオランダは暖冬だったと聞いた。いつもなら凍って、カモたちが行き場を失う街中の運河が一度も凍ることがなかったと。今年も運河は凍っていない。オランダの人たちは運河が凍るとその上でスケートをするそうで、近くのアンティークショップにも、「いつの時代につくられたんだろう」と思うような木製のスケート靴(靴につける刃の部分)が売られていたが、今年もその靴の出番はないかもしれない。

昨晩は、とうとうあの子が寝室までやってきた。「あの子」というが、それが私が思っている「あの子」かどうかは分からないのだが…。

昨年の冬、ネズミの姿を見かけたことはなかったと記憶している。しかしながら、視覚情報も聴覚情報も記憶も、曖昧極まりない。振り返るに、一昨年の夏にオランダに来て以降、最初の1ヶ月は家探しに奔走し、その次の4ヶ月はビザの手続きとドイツや日本との行き来にバタバタしていた。2019年の1月にようやくビザがもらえたが、そこから数ヶ月もあまり記憶がない。日常とはそういうものなのだろうか。きっとそうだろう。放っておけば、今この瞬間に何を見て何を感じているかに目を向けないまま、どんどんと時が流れていってしまう。それが、昨年の春に、友人の勧めで日記を書き始めてからは毎日の味わいが格段に変わったように思う。日々少しずつ変わっていく中庭の木々、太陽や月の動き、そして自分自身の心や意識の移ろい。日常の画素数が上がったと言えばいいだろうか、細かい小さな音色が聞こえてきたとも言える。とにかく、一日一日が彩り鮮やかでかけがえのないものになり、同時に、日々ご一緒する人たちの人生がさらに尊くかけがえのないものに思えてきた。ひとつの言葉の向こう側にある想いや人生を思うと、涙が出そうになることがよくある。

そんなこととで、私は今、ネズミの人生までも思っているのだろうか。昨晩、寝室に姿を見せたネズミを「さすがにここは」と追い払ったものの、「そもそもネズミとハムスターはどう違うのだろう。人間が悪者かペットかを決めているだけではないか」という気がして、ネズミとハムスターの違いを調べてみたりもした。(衛生面でネズミは危険があるということだが、本当だろうか。ハムスターも野生になればあまり変わらないのではないかという気がしている)

こうして書きながら、なぜ私が今、ネズミに親近感を感じてしまうかというのがなんとなく分かってきた。「たくましく生きる姿」に対する共感や憧れがあるのだ。毎日決まった時間に、もしくは、いつでも好きな時間に食べものが与えられるのではない。ときには変わり者と思われながらも我が道を行く。そんな人を応援したいという気持ちもある。

夜中に暗いリビングで絵を描いていると、カサカサと物音が聞こえてくる。

全く違う時間を生きる生き物と同じ空間にいることが、なんだか不思議で、ちょっとあたたかい。

いつか、猫と一緒に暮らしてみたいとも思っている。そのときはネズミは姿を現さなくなるだろうか。

向かいの家の屋根の上から差し込み始めた太陽の光を浴びながら、そんなことを考えている。2020.2.7 Fri 10:10 Den Haag

552. 協働者とわたし、クライアントとわたし –観察自己を観察する-

リビングでのうたた寝から目覚め、パソコンを持って書斎にやってきた。隣の保育所の庭で遊ぶ子どもたちを見守る女性と目が合う。空は、鮮やかな青が広がっていた昼間とは違って白をふんだんに含んでいる。庭の木は、私から見て右側、西の方向からオレンジを含んだ光で照らされている。

うたた寝をする前、観察自己と目撃者について考えていた。約2ヶ月ほど前に自分のコーチからもらったテーマが、「自己と他者の関係やそこに起こる現象を見つめ、それがどうあるべきかと考える観察自己から、それらをさらに意図を持って観察している自己(目撃者・美意識)を見つめてみる」というものだった。(その時点でさらに、もう一人それを観察している自己が生まれることになるが、それをどう扱うかについては取り組みののちに改めて考えてみたい)

まずは3つくらい「自己と他者の関係性」について見つめる観察自己を出してみると良いということで、いつもならそれについて言葉にしていくところだが、今回はまずは、最近絵を描いているパステルで表現してみることにした。

現在の時点で、2種類の「自己と他者の関係性」についての絵を描いている。今日このあと、もしくは明日改めてもう1つ取り組んでみたいが、まずはここまでのところを言葉にしてみる。

まず描いたのは、「協働者との関係性」についてだ。協働者とは、コーチングのクライアントではなく、言葉づくりや企画づくりなどのプロジェクトを一緒に行っている企業およびその企業でご一緒している人を指している。

もう一つが「クライアントとの関係性」だ。ここでは、クライアントはコーチングセッションをご一緒している個人を指す。

どんな取り組みをしようとも、一般的には「クライアント」なのだが、実際に描いてみると私にとって、「プロジェクトの協働者」と「コーチングのクライアント」は違う関係であることが分かった。

 

まず、大きな違いは、「協働者」と「わたし」は、共に具体的な何かをつくり出す関係だということだ。「つくり出す」ということにおいてはクライアントとの関係にも同じことが言えるが、つくり出すものが何かが違う。絵で見るとその関係性は明らかに違うのだが、それをどうにかこうにか言葉にしてみる。

協働者とわたしは常に重なっている部分がある。毎日毎日協働しているわけではないが、そのプロジェクトにおいては、常に重なっている状態であり、その重なり合った部分から生まれるのがサービスや言葉、周囲への影響などである。長い時間ご一緒していると、一緒につくり出したものから、そしてそれぞれがその他の取り組みから影響を受け、それぞれが変化をしていく。その結果、重なったところから生まれるものも変わってくる。それがまた、自分自身や周囲への影響を生み出していく。これは、「お互いの経験やアイディアを重ね合わせることから周囲への影響(商品やサービス・言葉)を連続的に生み出している関係」と言えるだろう。言葉にしてみて感じるのは、確かにこういう関係は私にとって心地よく、例えば自分だけが一方的にアイディアを出し続ける関係や、相手が一方的に意思決定をしていく関係は私にとっては協働とは言えず、自分の力が存分に発揮できる関係ではないと感じる。

一方、クライアントとの関係を描きながら、クライアントとは「重なり」が生まれないということに気づいた。協働者との関係と同じく、「一緒に何かをつくっている」ということは、感じている。しかしつくっている内容は、明らかに協働者とのそれと違うのだ。私はクライアントと何をつくっているのか。突き詰めるとそれは、「今この瞬間に共に生きているのだ」という体験なのだと思う。

私がクライアントと共に生きるのは、ある意味擬似的な世界だ。「擬似的な」というのは、クライアントにとって私との関係性はクライアントの普段の仕事とは違う世界にあるということだ。ものすごく極端に言うと「話した」という記憶や、メールなど以外に、クライアントにとって私が同じ世界に確かに生きているという証はどこにもない。そして、クライアントの取り組むことは私がいなくても粛々と為されていく。協働者と違って、普段短いメッセージのやりとりをすることもない。セッションとセッションの間にクライアントが自分で考えたことを言葉にして共有してくれることはあり、私もそれに対して感じたことを言葉にして返すが、日常の中の具体的な行動について相談や質問を受けることはないし、私もそういうやりとりは望んでいない。あくまで、クライアントは、私のいない世界を生きている。

ここまで書いて、協働者とクライアントとの関係の決定的な違いは、立ち現れる「課題」を誰のものと考えるかということだと分かる。協働者との間において、課題はともに解決または解消していくものであって、誰のものかと言うと「わたしたちのもの」ということになる。

しかし、クライアントの課題は私の課題になることはない。クライアントの課題はあくまで「クライアントのもの」ということになる。

というと、クライアントとわたしの間において、「わたしたち」という関係が発生しないかというとそうでもない。私はセッションの時間は相互に影響を与え合いながら、ときに同じような感覚を味わう、「わたしたち」の時間だと思っている。クライアントの体験や歴史があり、その場で湧き上がってくる考えや感情がある。それに対して、生身のわたしがいて、それらを受けてどんどんと変化をしていく。そしてその変化を伝え、今この場に新たに生まれたものを伝えていく。そのとき、わたしたちは協働者になっている。そうしてクライアントは、自分自身の内側から出てくるものが他者に与える影響やそこから生み出されるものを知り、その体験を持って、現実世界の中で、実際に利害関係や関係性のある他者と協働をすることになる。

コーチングセッションで手にするものが何かとあえて言うと、それは今この瞬間に生々しい自分と他者が共に生きているという強烈な体験をすることであって、変化はそのプロセスでもあり、副産物でもあると言えるかもしれない。

協働者とわたしの関係が「お互いの経験やアイディアを重ね合わせることから周囲への影響(商品やサービス・言葉)を連続的に生み出している関係」であるとするならば、クライアントとわたしの関係は「自分自身の内に生まれるものを重ね合わせることから、擬似的な協働を生み出す関係」と言えるだろうか。

「擬似的な」というと、つくりものっぽいイメージもついてくるが、そこにあるのは、生々しい命であって、だからこそ、その時間がクライアントの人生に影響を与えていくのだと思う。

協働者との時間とは違って、コーチングセッションでは私はクライアントとともに何か具体的な言葉やサービスをつくっていくわけではない。私はひたすら、聞こえてくるもの、私に見えるもの、私の中に新たに生まれたものを返していく。そこで生まれるものがあるとすると、ものごとや感情・事象に対する新たな意味づけだろう。その中から何を受け取り、どう使っていくかは、あくまでクライアント自身が決めるものだ。

一見、この関係には分断があるようにも見える。現実世界に関与しないという意味ではそうだろう。おそらく私は、クライアントと友人関係になることはない。(今後この感覚は変わるかもしれないが、今のところはそう思っている)クライアントが、自分が生きる世界を自分の足で歩み、自らそこにいる他者と協働できるようになっていく、幻のような存在でさえありたいと思っている。

ここまででまずは、「協働者とわたし」および「クライアントとわたし」についての関係性が見えてきた。もう一つ、考えるとしたら何だろう。「パートナーとわたし」だろうか。これは、「協働者とわたし」にも近い気がしているが、多少は複雑になるだろう。

「パートナーとわたし」ついて、そして、「3つの観察自己とを見つめる目撃者」についてはまた明日、言葉にしていきたい。2020.2.7 Fri 18:06 Den Haag