550. 黒猫師匠

書斎にやってくると、少し小柄な黒猫が、向かいの家のガーデンハウスの上に座っていた。きょろきょろと首を回し、こちらを見る。数日前にもこんな瞬間を体験したように思う。

あの黒猫は、自然の中にいる身近な師の一人だ。

どんなときも新鮮に世界を見つめ、軽やかに庭を探索する。

人間には、「苦労して手に入れたものの価値は大きいと感じる」という習性があるのだという。これはネズミをはじめとしたほとんどの動物にもあてはまり、例えば、エサがただお皿の上に置いてあるのと、レバーを押したらエサが出てくるのでは、二つが並んでいても後者の方を選び続けるそうだ。

習性としては同じでも、人間のメカニズムは少し複雑なのではと思う。苦労して何かを手に入れたとき、その手に入れたものに対して価値を感じるのと同時に、「それを手に入れた自分」に対しても、より大きな価値を感じるのではないだろうか。

自分が取り組むものやつくりだしたものと、自分自身に対する評価が一体になること。それが人間の原動力にもなるし、ときに苦しみを生み出すこともある。

直接的に生命の危機を感じることや言葉の暴力というものもあるけれど、生きている中で感じる苦しみの多くは、「そう感じる自分」によって生まれているのだと思う。

多くの動物が、苦労と報酬の価値を関連づけて認識するのに対して唯一猫は、それがないそうだ。

例えば、目の前のものを、ただそのままに味わうことができたら、目の前に立ち現れることと、自分に対する評価を結びつけることがなかったら、どんな世界を生きることになるのだろうか。

あの黒猫のように、軽やに、瞬間を生きることができるのだろうか。

そもそもあの猫には「自分」という存在に対する認識はあるのだろうか。

今はすっかり歳をとった実家の犬も、かつては自分の尻尾を追い掛けてよくぐるぐると回っていた。

鏡を見ると、そこに何かが写っていて、それが客体であり主体でもある自分だということに気づかないのは赤ちゃんも動物も、おそらく同じだろう。

あの、恐れなく世界に飛び込む感覚にきっと戻ることはないだろう。「戻る」という時点で、もう、その中にいることさえも気づいていなかった自分とは別の自分になっている。

でもきっと、あの黒猫のような軽やかさで生きられる日がきっと来るのではないかという気がしている。2020.2.6 Thu 10:16 Den Haag