547. 朝の散歩と自転車ラッシュ

シャワーを浴び、ヨガをし、白湯を飲み、身支度をして外に出た。首回りに薄手のストールを巻いているが、それがなくても大丈夫そうなくらい、厳しくない寒さだ。運河沿いの道に出て、背の高い木の並ぶ通りをてくてくと歩く。気づけば、頭の中が考え事の言葉でいっぱいになっていることに気づく。運河沿に浮かぶボートハウスの一つ一つに目を向け鳥の声に耳を澄ますも、頭の中はまたすぐに思考でいっぱいになってしまう。そのとき、鳥の声は聞こえなくなる。こんな状態で人の話を聞いていたら、話も全く頭に入ってこないだろう。なんてことをさらに考える。静けさこそが私の仕事であり、役割なのだと思う。

運河にかかる橋を渡り、ぐるりと方向転換をして帰路につく。途中、大きな犬、そして犬の後ろを歩く男性とすれ違い、軽く挨拶をする。大通りに戻ると、家を出たときよりもずっとたくさんの自転車が自転車専用道を走りぬけている。8:45。多くの人が職場に向かう時間のようだ。道路の中心を走るトラムにも、座席が埋まるほどに人が乗っている。(それは、このあたりでは「乗客が多い」部類に入る)

オランダの自転車はガッチリとしたつくりなこともあり、また、先を急いでいるのか、自転車に乗った人は「ガシガシ」と力強く自転車を漕いでいる。

オランダも、我が家も大好きだが、この朝の、自転車に乗る人が殺気立っているところは苦手だ。我が家はオランダで一番長い通りに面していること、そして中心部に向かう方向の片道の自転車道に歩道が面していることから、朝の時間に自転車で外出すると、さながら、交通量の多い高速道路に突っ込むような状況になる。東京の満員電車では、戦場にいる兵士と同じくらいのストレスがかかるそうだが、それと同じくらいの心理的負担がかかっているのではないかと思うくらいだ。

曲がるときは、スピードに乗ったまま手で曲がる方向を指し示し曲がらなければならない。合流するときには自転車の切れ目に、タイミング良く入り一気にスピードを上げなければならない。それを想像するだけで家で仕事ができて良かったと思うし、今のところ、通勤の負担や空間の気持ち良さを考えると家が一番仕事にも向いていると思う。

今はインターネットがつながらず、このあとどうやって原因を突き止めようかということが頭に浮かんできている。放っておくとすぐに、あれこれといろんな思考がやってくる。一つ一つ、目の前のことをありのままに見つめる。日常を鍛錬と楽しみの場にしていきたい。2020.2.5 Tue 9:16 Den Haag

548. インターネットにつながらない中で

家のインターネットがつながらなくなった。昨晩、寝るまでは普通につながっていたのだが、朝起きると、パソコンからもスマートフォンからもつながらない。試しにWi-Fiのルーターを再起動してみるもやはりダメだった。オーナーのヤンさんに連絡するも返事がないので、ひとまず午前中のセッションではスマートフォンからテザリングをし、セッションが終わってすぐに街の中心部にある電気屋に、Macに有線のLAN ケーブルをつなぐためのコネクタを購入しに行った。改めて、インターネットが繋がらないというのは私にとっては死活問題である。こんなときばかりはすぐに行ける距離に電気屋のある大きな街に住んでいて良かったと思うし、死活問題なだけに何かあったときに通信を確保できる複数の手段を持っておかなければということも改めて感じた。

そんなことを考えながら帰ってきて、コネクタをMacにつなげたものの、やはりインターネットには繋がらない。書斎の壁から出ているケーブルで試すとダメだったので、キッチンにあるWi-Fiルーターに挿してあるケーブルを直接パソコンに挿してみるけれど、やはりつながらない。

「昨晩、ついついYouTubeを見続けてしまったことを反省し、インターネットにつながる時間を制限する方法を考えたから、インターネット自体が止まってしまったのだろうか」などと、空想(妄想)が膨らむ。

つながると思っていたものがつながらないと不便さや不安を感じるが、必要なことはできるということが分かると、いつもそんなにインターネットがつながっていなくても特段不便でもなく、心がとても静かでいられることに気づく。

インターネットに繋がると、私はあっという間に情報の消費者になってしまう。消費しているならまだいいかもしれない、気を抜くとただただぼーっと受け止めて、影響される側から抜け出せなくなりかねない。

参加しているオンラインコースの動画などを見ることができないとやはり不便さはあるが、これを機に、インターネットの利用時間をぐんと少なくするというのもいいかもしれない。原稿を書いたり、本を読んだり、絵を描いたりと、やりたいことはたくさんあるのだ。

静かになった心で、次のセッションに向けて支度を始めることにする。2020.2.5 Wed 13:28 Den Haag

549. 偶然と必然と

相変わらずインターネットは繋がらない。それでも、本当に必要なのは、ミーティングやセッションに参加できること、メッセージを受け取ること・お返しすること、そして日記をアップすること・日記を読むこと、書籍や講座など必要なものにアクセスすることくらいなのだということが分かった。

例えば新聞は強い興味関心がないものごとにも出会うことはできるが、インターネットの世界は基本的にはそうはいかない。「偶然の出会い」もなくはないが、知識領域の量的な変化は生まれたとしても意識領域の質的な変化は生まれにくいだろう。(人は基本的に自分の思考の枠組みでものごとを捉えるとすると、インターネットに限らず、基本的には放っておけば自分のすでにある思考を補完するような情報だけに目を向けていくのかもしれない。)

コーチをつけると、それを見計らったかのようにもしくはそうなることを予見していてコーチをつけたかのように色々なことが起こり始めることがある。全てを含めて「そういうタイミング」だったのだろう。これまで通り、何も起こらないのであれば、コーチをつけようという決断をすることもない。

ものごとには順番や時系列があるように見えるが、もしかしたら全ては同時に起こっていることなのではないかと思う。

きっと、ひとりでも直面する困難を乗り越えることはできただろう。しかしきっと、その、乗り越え方や、そこから何を学ぶか、世界にどんな影響を与えるか、その人の人生にとってとても大切なことがそこにあるからこそ、そのときにコーチをつけることになるのだと思う。

私自身はどうか。

今は比較的、静けさや穏やかさの中にいることができていると感じるが、それはこうして言葉にする場所があること、話を聞いてくれる人がいること、学び合う相手がいるからこそ、そう感じられるのだと思う。

振り返れば、福岡を離れ、東京に行ったときから、ずっと「大変な状況」の中を歩いてきた。そのときそのときを楽しんできたけれど、心休まる時間が続いていることを感じられた期間はとても少ない。それはある意味私の性(さが)のようなものなのかもしれない。

「こんな風に暮らせているのになぜそれを手放すの」

東京の会社に転職を決めたとき、私の希望を応援をしてくれていた当時の夫がポロリとそう言ったことがあった。

後から思えば、確かにそこには幸せがあった。心休まる時間があった。

でもそれがずっと続くことを幸せと思い続けられるかというと、当時の私にはそうではなかった。

今は、変わらない日々とそれが続くことの中にある幸せを感じることができるだろうと思う。でもそれは、一周回ったからこそであって、以前の私がそのままの暮らしを続けたならば、この感覚は得られなかっただろう。

數十分前にまた「幸せなら手を叩こう」という歌のメロディーが聞こえてきていた。

ここ数日、毎日その歌が微かに聞こえてくる。

これまでももしかすると、毎日聞こえてきていたのかもしれない。

まだ見ぬ、「静かな暮らしが続くこと」を心待ちにする。そんな今を味わっている。2020.2.5 Wed 17:21 Den Haag