544. 「日本人」を脇に置いて映画を見ると…

闇の前には白がやってくる。

薄暗くなりはじめた家の中を見てそんなことを思った。我が家のリビングと寝室の壁は肌色にも近い薄ピンク色の塗装がされているのだが、天井の高い空間にそのとき満ちていたのは白だとなぜか強く思った。それは、これからやってくる暗闇の記憶が、部屋からなくなりつつある色彩の中にある白を強く見せたのかもしれない。

隣の保育園の庭では子どもたちが家を上げて動き回っている。17時にさしかかろうとする中でこんなにハッキリと外の景色が見えるということは日没の時刻が随分と遅くなっているということだ。

今日は午前中のセッションの後に街の中心部まで映画を観に出かけた。昨日、オランダに住む知人に教えてもらった『天気の子』というアニメを観るためだ。中心部にある映画館ははじめて訪れたが、予想に反して意外と広く、いくつものスクリーンがあるシネマコンプレックスと呼ばれるタイプの映画館だった。事前にチケットを購入したときに見た座席の画面の埋まり具合同様、人はまばらだった。

私が今回特に関心があったのは、映画の内容そのものよりも、「日本」もしくは「日本語」という文化的・慣習的な背景がない人にとって日本の映画はどのように感じるのだろうということだった。日本人でなくなることはできないが、自分が当たり前に受け入れている言葉の意味やニュアンス、映像に含まれているものをできる限り新鮮な目で見てみようということを試みた。

そんな心持ちでいると最初に映し出される「東映」という文字さえ、神秘的に見えてくる。「オリエンタル」とも言えるだろうし「エキゾチック」とも言えるだろう。(以前、フランス人の友人が「エキゾチック」という言葉を使った時に、彼にとってのエキゾチックと私にとってのエキゾチックは全く違うものが想起されているのだということに気づき愕然としたことがある)

そして、東京の街は言うなれば「カオス」だ。オランダではアムステルダムが最も賑わっている都市だが、高層ビルが立ち並ぶエリアというのは新興地区を除いてほとんどない。そういえばドイツでも「フランクフルトは他の都市とは違ってスカイスクリッパー(高層ビル)がある」とわざわざ言われていたくらいで、そのくらい、高層ビルが立ち並ぶエリアというのは少ないという印象だ。(ロンドンでも高層ビルがあるのはごく一部だったように思う)

そんな街に家出をした高校生がやってくる。親を亡くした子どもが子どもだけで暮らしている。その設定自体オランダで成り立つのだろうか。ちょうど少し前に「日本のアイドルがいかに世界的に見て不思議な存在か」(学校にいかなくていいのかなど)についての記事を読んだところだったが、まさにそんな不思議な世界がそこにはあった。

オランダ語は全く分からないので字幕として出ていたオランダ語でどんな表現がされていたかはわからないのだが、鳥居というセリフが出てきたときに”Temple○○”という文字が見えた。Templegateのように訳されていたのだろうか。構造物として似たものを表現することはできるだろうけれど、そこに含まれる意味までは短い言葉で表すのは難しい。そういえば以前、ロシア語の同時通訳やエッセイストでもあった米原万里さんの本の中で、「親父ギャクの通訳が一番難しい」という話が出てきたことがあった。(社会的・時代的背景が大いに含まれているのと共に、予測不可能なタイミングで突如として繰り出され、話者の言語を理解することができる人はその場で一斉に笑うため、通訳を介して話を聞いている人たちは何事かと驚き、スルーすることも難しいのだという)

「分かる」ということを脇に置いてみると、改めてあらゆることが「分からない」もしくは「伝えるのが難しいだろう」と感じた。その中でも特に難易度が高いと感じたのが、関係性を表す言葉と神様などを含む言い伝えなどに関する話だ。

よく言われることだが、日本語は相手に応じて自分を表す言葉が変化する。同時に相手の呼び方も変化する。映画の中でポイントとなる、主人公の一人語りが入るシーンで使われていたのは「君(きみ)」という言葉だった。

「きみ」というのは、改めて特別な意味を含んだ言葉だ。親しい相手に面と向かって「きみ」と呼びかけることはほとんどない。名前を知らない相手に使われることは想像はできるが、実際には「あなた」を使うことの方が圧倒的に多いのではないか。思い浮かぶのは警察官が若者を呼び止めるときに「きみきみ」というくらいだが、それも映画やドラマの世界であって、現実社会でそんな風に使われているかは定かではない。

無理やり「一般的に」言うと、「きみ」は、名前を知らなくて自分より年下もしくは立場が下の相手に使う呼び方ということになるが、映画やアニメの、回想や一人語りのシーンにおける「きみ」はそれとは全く違うニュアンスを含んでいるように思う。まず、「きみ」と呼びかける相手は多くの場合目の前にはいない。もしくはいても、「想いを伝えることができない相手」のように、相互にコミュニケーションをフランクに交わす相手ではなく、表立っては相手のことを「○○さん」とか「○○くん」かしこまった呼び方をしている。「伝えたい強い想いがある。でもそれを直接伝えることはできない」というときの呼びかけというのが日本の映画やアニメもしくは新海誠監督のアニメにおける「きみ」の位置付けのように感じる。そんなニュアンスを、少なくとも字幕で表記される「あなた」を表すオランダ語では到底表現することはできないのではないか。年下だから呼び捨て、年上は「さん」をつけるということも、言語としても文化としてもオランダにはないのではないかと思う。(ちなみにオランダでは数年前に「あなた」を表す敬称が廃止されたそうだ)

そしてもう一つ、鳥居と同様、その存在そのものの意味合いがわかりづらいのではないかと思うものが、神様に関する考え方だ。映画の中には「廃ビルの屋上にある小さな神社」が登場した。オランダにこれに近いものはあるのだろうか。例えばひっそりとつくられた宗教施設のようなものがそれにあたるのだろうか。もしくは、私が知らないだけで「施設」とまではいかない、「シンボル」のようなものだけ祀られているということもあるのだろうか。

さらに「雨女」「晴れ女」という言葉にもはてなが浮かぶ。そんな概念はあるのだろうかと調べてみると英語では「Rain bringer」という言葉があるということで、「雨を連れてくる人」や「晴れを連れてくる人」という考え方自体はありそうだ。しかし、オランダ人の感覚としてはどうなのだろう。このあたりはオランダの人にぜひ聞いてみたいところだ。「神隠し」や「人柱(ひとばしら)」はどうだろう。これも、人為的にしろそうでないにしろ様々な理由で人がいなくなったり、生贄のようなものをささげるという考え方をしている時代があったのであれば近い概念としてはありそうだ。

では、「晴れの神様」と「雨の神様」がいるという設定はどうだろう。例えばキリスト教は一神教である。神話の世界では神はたくさん出てくるが、「森羅万象に神が宿る」という考え自体、とても日本(もしくは東洋?)的に感じる。

そんな風に考えると、とても近代的・都会的・人工的な街の中で、人々が人間を超えた存在を信じているという組み合わせ自体が、西洋の人から見るとやはりとても神秘的というか、「異世界のもの」に思えてくるのではないか。(映画の中では日本人にとっても不思議なものだという設定ではあったのだが、前提があまりにも違うように思う)そういえば、ハリウッド映画などは目に見えないものが登場するものの大半はホラー映画になっている気がする。もしくはゴーストなどの幽霊ものでもあくまで人間もしくはその想いのようなものが身体を失った状態として描かれている。ファンタジー映画のように、不思議な存在を「別の世界の生き物」として描かれることもある。冒険ものにはお決まりの冒頭として「異世界に入りました」というシーンが登場したりもする。時代や場面の設定が変わることなしに、幽霊やゾンビ、異星人の仕業ではなく不思議なことが起こるという設定は、思い返してみると、「洋画」と言われるものではあまり出会ったこなかった気がしている。もしくはそれこそ、そんな映画に出会っていたとしても、その中に出てくる文脈や前提が、自分には読み取れず、結果として私も「幽霊もの」として捉えていたということだろうか。

と、気づけば『天気の子』を観て感じた日本という世界観の不思議さについて随分と書き連ねていた。このあと、もう一つだけ、総合エンターテイメントとしての映画(アニメ)と音楽の関係について書き留めておきたい。2020.2.3 Mon 17:59 Den Haag

545. 音と言葉と感動と

気づけば外はすっかり暗くなった。いつのまにか明かりがついた向かいの家のリビングには小さな子どもが動き回り、その隣のリビングで大人の女性が料理をする様子が見える。向かいの家々の窓、それぞれからオレンジ色の明かりが漏れ出している。

『天気の子』のクライマックスで感じたのが、音楽と歌詞の力だ。私は割と感動やさんなこともあり、巷の評判に関わらず、大抵の映画は心が何かの形で動く。映画のクライマックスで、製作者の狙い通り、感動して泣きそうになることはよくある。それは映画のストーリーと映像の力が後押ししていると思っていたが、今日感じたのは、歌詞に使われている言葉そのものが、心を揺らしてくるということだった。

そして、映画の世界にどっぷり浸りながら、同時に「この歌詞の意味が分からなかったらこのシーンはどんな風に感じるんだろう」と冷静に思う自分もいた。これまで気にしたことがなかったが、映画の挿入歌に対しては字幕がつかない。ミュージカルものなど、歌の歌詞がセリフと同じような役割をしているものについては字幕がつけられているような気がするが、それ以外はおそらく、日本で見る海外の映画にも、挿入歌に字幕はつけられていないだろう。

単純に考えて、音楽に歌があるかないかは、世界の全体を見ているか半分を見ているかくらい違うのではないか。「ファーファーファーソーラソ、ララシドー」というメロディー(音階)は、「うーさーぎーおーいし、かーのーやーまー」という歌詞が思い浮かぶからその世界観やわびしさが想起されるのであって、言葉の意味が分からなかったら、音楽としての雰囲気しか受け取ることができないことになる。

しかし、一方で、音楽そのものが深い世界観を持っているため、歌詞が分からなくてもそこに込められた情緒は感じることができるのかもしれないとも思う。特に日本語は、アナと雪の女王の主題歌を世界各国の人が歌うバージョンでも注目されたように、一つの音色に一つの言葉の音が乗るという特徴がある。ある意味言葉が音で、音は言葉なのだ。

そう思うと、これまで見てきた日本語以外の映画の世界観を私はどれだけ味わうことができただろうかという疑問も湧いてくる。「あのとき感じた感動は何だったのか」という気にさえなってくる。それは自分がとても狭い、限定された思考の枠組みや感覚でしかその世界を捉えていなかったのではないかという悔しさにも近い。そう考えると日本映画も同じようなものかもしれない。結局のところ私たちは自分の今持ちうる最大限の想像力と理解力を持ってしか、物事を受け止めることはできないだろう。

今日観た映画、今日見た世界も、数年先、数十年先の自分にとってはまた全然違うものに見えるのかもしれない。今日の心に感じることは、止まることも戻ることもない生と世界の交差点に生まれる奇跡のようなものだろう。日本に生まれ育ったということが、日本を離れた今も、私の中には深く深く息づいているということに気づいた、久しぶりの映画鑑賞だった。2020.2.3 Mon 18:26