542. 冬の暮らし

家中に掃除機をかけ終わり、書斎にやってきた。窓にあたる雨の音が心に響いていた掃除機の音を包み、地面へと落としていく。

冬の雨は静かだ。春から夏、秋にかけて雨粒を受け止めていた木々の葉はすっかり姿を消している。裸になった枝に、透明な実がなるように水の球がぶらさがっている。

掃除と洗い物というのは、日々のことの中で結構好きだと最近気づいた。(それ以外にあまり家のことでやることがないのだが。)洗濯物を干すのも嫌いではないが、洗濯機の音というのがいかんせんうるさい。掃除機も、その電子音はあまり好きではなく、東京の家では途中からホウキとちりとりを使うようになったくらいなのだが、今使っているダイソンの掃除機は音も比較的小さく、何よりコードがなくて使いたいときにすぐに使うことができるので、我が家にやってきてからは大活躍している。

普段はキッチンの端っこに置いて充電をしてあるのだが、台所の床に玉ねぎの皮が落ちたときなどにもささっと掃除をすることができる。何より家の中のどんなところもさくさくと掃除をしていけるところが気持ちがいい。一般的な掃除機のように床を転がる部分がなく、持ち手から長いノズルが出ているような形状なので、身体と一体になりやすいのかもしれない。

オランダに来てからというもの、ドイツでは季節の変わり目に症状が出ていた手荒れも出なくなったため、洗い物をするときに手袋をしなくてよくなり、洗い物も随分と楽になった。あたたかい湯は手の油分を奪ってしまうので基本的には水を使うようにしているが、冷たい水が感覚を刺激してくれるようでそれもまた気持ちがいい。

ドイツの家にはどこも大きな食洗機があった。(オランダの一般家庭もそうなのだろうか)それの方が水が節約できるという話なのだが、1時間近く食洗機を回すのに使う電気というのは大したものではないのだろうか。食洗機そのものに使われている材料や製造にかかる人手とエネルギーと時間を見渡したときに、本当に食洗機の方が環境負荷が少ないと言えるのだろうか。食洗機を買うためにその分働く時間も加味すると、なんとも不可解な気持ちにもなってくる。

自然回帰を礼賛するわけではない。それでも、まだなお雪が降らないことから地球環境に変化が起こっているのではないかと考えると、テクノロジーの使い方の方向性というのはもっと、大きな視点から考えていくべきなのではないかという気がしている。

そんなことを考えながら、寒がりの私は暖房を最大にして家の中でぬくぬくと日記を書いているのだが。2020.2.2 Sun 9:55 Den Haag

543. 映画の世界、ネズミとの共存

日曜の夜、中庭をはさんだ向かいの家々にいつもよりずっとたくさん明かりが灯っているなと思うものの、普段どれだけ外の世界に目を向けられていただろうかと考え直す。

我が家は家の中が明るすぎるかもしれないと思い、寝室とリビングの天井から降りている明かりを消し、それぞれの部屋のスタンドをつける。人は光が当たっているところばかり目が止まるのかもしれない。光と言えば聞こえはいいが、そこにあるのは明るいものや希望ばかりではない。苦しみに光を当てれば、見える世界は苦しみに満ちたものになるだろう。たとえそうだとしても、そこに苦しみがあるということをただ静かに眺めていることができたら、苦しみとともにあることができたら、心は穏やかでいられるのではないかと思う。

ここ数日、ネズミが動き回っている。これまでもネズミの気配(足音やフン)を感じることはあったが、明らかに私が起きている時間に姿を現すことはそう多くはなかったように思う。それが、台所をかさかさと動き回るだけでなく、リビングまでやってくるのだ。よっぽど食べ物がないのだろうか。冬があたたかいとその分食料になるものも多そうな気がするがそういうわけでもないようだ。地球上のものが、なんだかざわざわと動いていることを想像する。

大好きなジブリのアニメの『天空の城ラピュタ』の中に出てくる、鉱山の中に住むボム爺さんの「どおりで石が騒ぐわけだ」というセリフを思い出す。

地震などの天変地異の前にネズミが姿を消すという話もある。どこかで何かが起こる前触れなのだろうか。

アニメのシーンになぞらえ、そんなことが頭に浮かんでくるのは、今日、日本のアニメの情報に触れたからかもしれない。オランダに住む知人が、新海誠監督の『天気の子』というアニメが現在オランダの映画館で放映されているということを教えてくれた。調べてみると確かにハーグでも2カ所の映画館で観ることができる。

東京に暮らして、楽しいこともあれば大変なこともあった。得たものもあれば失ったものもあったと思う。そんな中でも一つ、それまでとは違う感覚で観ることができるようになったのが映画だ。『君の名は。』 も『シンゴジラ』も、それまでは遠かった「映画の中の世界」がとても身近に感じた。渋谷のスクランブル交差点や山手線をはじめとした各鉄道は実写でもアニメでも、映画の中によく登場する。そこに描かれる空気感、そこに行き交う人々の息づかいをリアルに想像できるようになったのは、東京に住んだからこそだと思う。

そういう意味で、他の国の人にとって、日本や東京を描いた映画というのはどんな風に映るのだろう。オランダから言うと、東京も日本も異世界だし、それはきっと他の多くの国から見てもそうだろう。(アジアの新興国から見ると雰囲気は近いのかもしれない)物語というのは、そこに描かれたものだけで成立するのではなく、それを包む社会や受け手の生きてきた時間と混ざり合って奥行きと意味が出てくるのではないかと思う。

もしかしたらオランダの人たちにとって日本の映画は、私が思うのとは全く違う世界に見えているのかもしれない。それは例えば私から見たハリウッド映画なども同じなのだろうか。きっとそうだろう。私自身が今、オランダの社会に生きながら日本のアニメを見るとどんな感覚がするのかというのも、オランダの人たちがどう受け止めるのかというのも興味深い。

調べてみると2月5日までは上映の予定が決まっており、その先は未定ということだった。その中でお昼間の時間に行けそうなのは明日。12時より前に始まる上映は割引価格の9ユーロで観ることができるということで、早速明日、映画館に足を運ぶことにした。

ネズミの話に戻ると、衛生的な問題から、できるだけ出てきてほしくないなあと思うものの、捕まえようという気は全く起きない。以前、その姿が見えず、カサカサという音だけが聞こえていたときはなんだか気味が悪くていつも行くオーガニックスーパーの店員さんにネズミを捕るものはないかと相談したくらいだったが(そのときに明確な方法は見つからなかった)その数日後から足音が聞こえなくなり、さらにしばらく経った後にキッチンの脇に置いてあるガラスの花瓶の中に、カラカラになったネズミの死骸を見つけたときに、なんだか少し切ない気持ちになった。

縦横無尽に動き回ると思っていたネズミも、ガラスの花瓶の中に入ったが最後、そこから外に出ることはできなかったのだ。そうでなくてもいつかはどこかで命が尽きる。それより早く私がネズミを捕らえることにどれだけの意味があるだろうか。「衛生的な問題」などと言うが、人間が地球に対して行なっていることはどうだろう。それに比べるとネズミがパンくずを食べ、フンを残していくことくらい、可愛らしいことに思えてくる。幸い、寝室には姿を現さず、睡眠を妨げることは今のところないので、しばらくはほどほどに共存していく道を選びたい。なんて偉そうに言っているが、そもそもネズミから言うと私の方が新参者なのかもしれない。

調べてみるとネズミの寿命は長くて3年、食べ物がなければ3日ほどで死ぬという。(もうちょっとしぶといようにも思うけれど本当だろうか…)人の気配がする中でも出てくるというのは、それだけ食べるものに困っているということかもしれないし、そもそも人の気配なんておかまいなしなのかもしれない。

人間にとって食べ物と同じくらい、いやそれ以上に大事なのは関係性なのではないかと最近思う。それは特に、企業での勤めを終えた人たちが突然関係性を失い戸惑うという状況を見てきた中で感じることだ。目の前の本棚の中に平田オリザさんの『下り坂をそろそろと下る』という本があるが、社会が縮小していくことを前提とするのと同様、人は人生の中でだんだんと下っていくのだと思う。それに対して、深刻になる必要はないが、現実として受け止めながら、環境の変化に身をまかせるのではなく、ある程度能動的に次のステージをつくっていく必要があるのではないかと感じている。関係性も必ずしも多ければいいというものではない。他者との関係性を最小限にする中で自分自身と深く向き合うという時期や生き方もあるだろう。結果としてそうなるとしても何の心の準備もしていなかったという人にとってはダメージが大きく、回復に時間がかかり、場合によっては長い間、暗いトンネルの中を彷徨うような時間をすごすことになる。それも人生の一つのステージだと言えばそれまでだが、その中で生きる希望や、本来持っている光を失ってしまうのはさすがに悲しいと感じる。昨年末から繰り返し出てきているが、ウェルエイジングというのは今後長きに渡って向き合うテーマとなりそうだ。

週が明けると、新しい月が本格的にはじまる。このあとは、言葉の世界を離れ、色と感覚そのものになることにする。2020.2.2 Sun 21:45 Den Haag