537. 枕元に置いた時計と誰かの夢とつながる夢

パソコンを持って、小さな書斎に来る途中、寝室の枕元に近い台に置いた腕時計が目に留まった。それは、数日前、「寝るときにパソコンやスマートフォンなどの電子機器を寝室に置くのはやめよう」と思い、いつも目覚ましをかけているスマートフォンの代わりにと置いたものだった。

日本にいるときも含め、もう7年くらい前から我が家には時計とテレビがない。物心ついたときから(テレビが家に来た日のことは今でも覚えているが)家の中に時計があるのは当たり前で、それは「授業の開始時間に間に合うように学校に行く」ということを大いに助けてくれたのだが、今となっては家の中に時計とテレビがあることの必要性は感じない。スマートフォンが普及し、いつでも手軽に時刻を確認できるようになったということもあるが、できればスマートフォンとも日常的には距離を置きたい。スマートフォンは離れた場所にいるパートナーと連絡を取り合うのにつかうくらいで、それさえできれば家で手元に置いておく理由というのはない。パートナーがオランダにいる間はその必要もなく、その結果目の前のことだけにいつも集中することができたように想う。

今は打ち合わせやセッションなど「約束の時間」があるので全く時計を見ないわけにはいかないが、できればそのうち「宇宙のタイミングで」という感じで、お互いにピンと来た時に自然と話ができるようになればいいなと妄想している。それは案外できるのではないかという気もしている。ただ、今はまだそうは言っていられないのと、特に日本時間の夕方にあたるこちらの朝の時間はセッションや打ち合わせが入ることも多いため、寝過ごしたということがないようにと、枕元に腕時計を置いたのだった。

それが今、11時45分少し前を指している。

一昨日、寝る前に暗闇の中でその腕時計を見たときには23時45分少し前を指していた。

そのときは、「あれ、もうそんな時間かな。思ったより長く本を読んでいたのかな」と思ったのだが、なんてことはない、時計が止まっていたのだ。「おかしいな、でもそんなこともありえるかな」と思う時刻に時計を見ていたというのが奇跡的というか、なんというか…。私はだいたいのことをあまり深く考えずにまずやってみるタイプだが(それで後になって、もう少し考えてから動けばよかったなあと思うことも多々あるのだが)、そんな自分の楽天さのようなものが思った以上に生活の随所に溢れているのだろう。

そうだ、最初に時刻を見たときに「あれ、この時計は進んでいるのかな。だとすると、明日の朝、この時計の時刻に合わせて起きたら、予定より早く起きることはあっても遅く起きることはないだろう」と眠りについたのだった。

腕時計を枕元に置いた翌朝は、リビングで微かに鳴るスマートフォンの目覚ましの音で起きたのだが、それがあって本当に良かったと思う。

今朝は早い時間の目覚ましを切っていたので、「長く寝た」という感覚がある。その終わり頃、随分長い時間か、もしくは一瞬かもしれないが、夢を見ていた。内容は断片的にしか思い出せないのだが、掛け布団のあたたかさを存分に味わってようやくそこから抜け出し、まだ思考の回らない中、「他者の夢とつながっている」と思ったことをはっきりと覚えている。

それがなぜかは分からない。でも「この夢は、私一人の人生を通して見ているものではないぞ」と思ったのだ。そのときは「他者」というのは、「今日の誰か」というイメージだったのだが、もしかすると「時空を超えた誰か」とつながっていることもあるかもしれない。ともかく、そう思うくらい、今朝の夢の中には「世界」とも「宇宙」ともつかない何かが広がっていたのだ。

昨日、以前書いた書籍の目次案を更新し、これまで書いたものを少しだけ整理した。これまで、インテグラル理論を土台としながらも、その内容には直接的に触れずにコミュニケーションのことを書いていこうと考えていたが、そうするとどうしても辻褄が合わないというか、しっくり来ないところがある。なので、どんな考えに立脚しているかということを序章で触れて、「この道具を使ってコミュニケーションについて考えてみる」という流れにするのがいいのではないかという気がしている。インテグラル理論に関しては数千字や数万字で語り切れるものではなし、私もまだその入り口からの景色しか見ていないのだが、だからこそ、全く知識のない人にも考え方の枠組みとして平易に伝えられたらと思う。難しいことをかんたんに。でも深く。読み返すたびに違う発見があるように。そんな文章を残してくれている先達たちの思考と言葉からこれからも学び続け自分自身も拙くとも言葉を綴っていくことを続けたい。2020.1.30 Wed 10:17 Den Haag

538. 自分を整えること、自然に発揮されること

いつの間に雨が降ったのだろう。書斎の窓には細かい光の粒が広がっている。パタ、パタという音とともに、粒が増える。どうやら今も雨が降っているらしい。斜め前の、老齢の女性の住む家のダイニングにはオレンジ色のロウソクの灯りが灯っている。

今日は久しぶりに日本にいるパートナーと長く話しをした。会社を辞めてすぐに比べて随分と顔色も良く、表情も柔らかくなっているように見える。人が纏う空気というのは、自分が普段接しているものたちを映し出したものなのかもしれない。今会う人々、身を置く環境のもたらすものに加えて、本来持っている感性や美しさがどんどんと花開いているのかもしれない。

今日は、先日教えてもらった日本にエサレンボディワークを伝えた方の書いた本を読んだ。これから大きく私が向かいたい方向は、身体性や全体性を発揮するということだということはだいぶはっきりしてきた。それをどういう形で届けたらいいかはまだ明確にはなっていないが、まずは一人一人ができる「セルフケア」もしくは「セルフコンディショニング」という形で、情報として届けていきたい。専門家の関わりが有効なことというのも多くあるが、自分である程度のことができれば、その分、多くを稼がなくても良くなるのではと思う。経済的な豊かさを追求することは一つの価値観であると思う一方で、そこに偏ると、時間や身体的な健康・関係性の健康といった面でアンバランスさが出てくるだろう。その中には、「働くことで消耗し、消耗を癒すためにお金が必要で、そのためにまた働き、結局のところ何も残らなかった」という自分自身を省みる気持ちもある。気づいたときにはすっかり歳を取っていたというのは、ホラー映画のようであり、現代社会に往往にして起こっていることのように思う。

目の前のことに力を向けるために今必要なのは、集中力であり体力だ。気候のいい時期でさえ外に出ることの少ない私が、昨年の秋以降ますます外に出ることが少なくなっている。外的な刺激によるモチベーションの上がり下がり(やりたくないことをやる、自分にとっての意味が曖昧なことをやるということ)がほとんどんなくなっている今、ほとんどのことは「自分次第」であり、それは心と身体の状態に帰着する。それこそ、セルフコンディショニングだ。何か特定の能力を高めるのではなく、生き物としての生命力を高めるような、そんなことに取り組む必要性を感じる。それはきっと、どこかで誰かの役にも立つだろう。

そんな中、一昨日の夜から始めた、「絵を描く時間」はとても心地いい。絵と言っても、具体的に何かの絵を描くというよりも、紙の上に色を載せ、擦り込んでいくということを鼻歌とともにやっているだけだ。そこには「絵を描く自分」はいない。「絵を描く自分を客体として捉える自分」とも言える。ただただ、色と遊ぶという行為そのものになっている。なんとなく「できあがり」を迎えた絵を、距離を置いて眺めてみると私自身の内面にあるのであろう色々なものが浮かんではくるものの、それを言葉にすること、明確にすることはあまり意味をなさないのではと思っている。少なくとも今は、ただ、ただ、没頭することそのものを楽しみたい。

パートナーが少し前に参加した臨床美術の講座でもオイルパステルを使ったとのことで、今度は今使っているソフトパステルに加えて、オイルパステルも使ってみたい。

暗くなり、静かになった。今日もここから、言葉の世界から離れていく。2020.1.30 Wed 19:41 Den Haag