536.インターネット空間に吐き出されるゴミについて

一昨日の日記を読み返し、サイトのアップをした。この時間にこうやって書斎で日記と向き合うのはとても久しぶりに感じる。日本時間の18時頃にあたるオランダの朝10時頃は、最近は朝一番で行った打ち合わせと次のセッションの合間の休憩時間で、飲み物を飲んだりぼーっとしたり、はたまたメールの返信などをしていることが多かった。メールのやりとりというのはだいぶ少なくなっているが、それでもまだゼロではない。メール自体もそうなのだけど、あの、Gmailのガチャガチャとした画面はどうにかならないものだろうかと思う。メールに限らない。インターネットブラウザを開き、どこかのサイトを開くと、多くの場合、あふれんばかりの情報が飛び込んでくる。さながら、自宅に突然たくさんの人が土足で入ってくるような、そんな感覚さえ覚える。

先日、パソコンを使っているときにふと、インターネット空間に浮かぶ「ゴミ」についての考えが浮かんだ。プラスチック製品をはじめ、ゴミ問題や環境問題へ声を上げる動きが強くなっているが、インターネット空間に目を向けてみると、そこには毎日、驚くほどたくさんのゴミが放出されているのではないかと思う。「ゴミ」というのはとても極端な表現だし、その中には誰かの役に立つもの(私もその恩恵を大いに受けている)や、生きる表現として置かれたもの(日記もその一つだろう)などもあって、それを一概に「悪い」と評価する気はないのだが、一方で、コピー&ペーストによってニュースや記事などが無尽蔵につくられているのも事実だ。

もし、インターネット空間にある文字や動画を身体的に認知できる物体に置き換えたなら、毎日生成される物体の量というのは恐ろしいほど膨大になるに違いない。インターネット空間にある情報の90%が誰にも見られていないという話を聞いたこともある。とは言え、誰にも見られなくてもいいといえばいい。インターネット空間が文字や動画でいっぱいになってパンクすることもないだろう。それでも、そこに浮かぶものをつくり出している人間の時間には限りがある。膨大な情報の中から信頼できるものを見つけるのにも時間がかかる。「表現の自由」と言ってしまえばそれまでだし、基本的にはそれぞれの人が好きなようにすればいいと思うけれど(私もこうして、誰に向けてでもなく日々言葉を置いていっているし、それができる場所があるというのはありがたい)、「お金を回す」ことを目的とするものをつくること・それを閲覧することは限られた人生の時間を消費もしくは浪費することにしかならないのではという気がしている。

我ながら、最近、考えることの論調が厳しい。この批判的な姿勢というのはどこから出てくるのだろうか。その先には、もっと「清濁併せ吞む」ような在り方が生まれてくるのだろうか。自分の厳しい見方に嫌気がさすこともあるが、今は自分の頑なさを味わうときでもあるのだろう。2020.1.29 Wed 10:24 Den Haag