531.肌とコミュニケーション

パソコンを持って書斎にやってくると、向かいの家の庭に出てタバコをふかしている男性が見えた。庭に佇む男性。それを向かいの2階から見る私。寒さが厳しくなる前、日が沈むのが早くなる前には、こんなことがよくあったように思う。気づけば、朝晩、暗い中で外が見えないことを理由に書斎で日記を書くことが少なくなっていた。特にここ1週間、2週間くらいは日記を書く量自体が少なくなっていた。この寒さの中でも男性はこれまでと変わらず庭でタバコをふかしていたのかもしれない。先ほどはガーデンハウスの上に座っている口先と首のまわりと足先が白い黒猫と目が合った。今は、前進真っ黒な少し小柄な黒猫が隣の家の屋根のフチを歩いている。私が外の世界に開いていなかっただけで、世界は変わらずそこにあって、少しずつ変わりながら、変わらない時間が流れていたのだ。

それしてもあの黒猫は相変わらず小柄だ。あっという間に大きくなって他の猫と変わらない「猫」になるのだろうと思っていたが意外とそうでもないようだ。夏には葉をかかえ、秋には実をたずさえ、今はすっかり裸になった葡萄の蔓には、ところどころ苔が生えている。じっと動かず、静かに春を待つ。その姿は優しく穏やかに見える。

今朝、顔にいつも使っているアルガンオイルを染み込ませているときに、「肌は食べものでできているんだなあ」ということをしみじみ感じた。もう長いこと、スキンケア的なものは朝の保湿(今はオイル)だけでいわゆる化粧をしていないということもあるが、食べているものが顕著に肌の潤い具合に現れているように思う。肌の手入れというのは、やりはじめたら本当にキリがない。化粧品カウンターに行こうものなら、ビックリするくらい、あれやこれやと紹介をされる。しかし結局のところ、肌の状態に最も影響を与えているのは食べているもの(と心の状態)なのだと思う。どんなに上から補っても、それはやはり補っているのにすぎず食生活を改善しなければずっと対処療法をしないといけないことになる。

 

そんなことを考えながら、ふと、これはコミュニケーションにも同じことが言えるのではないだろうかと思った。コーチングをはじめ、コミュニケーションスキルというのは学ぶことができるし、学びを実践すること自体、決して無駄なことではない。しかし、一番大切なのは、自分が普段どんなコミュニケーションを摂取しているか、つまりはどんなコミュニケーション環境の中にいるか、なのではないか。コーチやカウンセラーの影響は、クライアントのその先にいる人にまで及ぶというが、それは、クライアントにとってのコミュニケーション環境の一部が変わり、その結果アウトプットされるコミュニケーションにも変化が出てくるためとも考えられる。他人を変えることはできない、しかし自分が、どんな物理的環境や関係性の中に実を置いているかを省みることはできる。環境や関係性には自ら働きかけることもできる。

肌とコミュニケーションについて違いがあるとするとコミュニケーションには自分が外に出すものが、自分に入ってくるものをつくるという循環というか相互作用的なものがあるという点だろうか。

ということを書こうとしたさなか、ガタっという音がした。横を見ると、書斎の窓の向こう側に黒猫が座っている。薄黄色の澄んだ目を見開いている。あ、と思った瞬間、黒猫は、姿を消した。

これまでも日記に書いたことがあるが、我が家には二度ほど、ベランダに続く窓から黒猫が入ってきたことがある。瞑想をしていたときと、読書をしていたとき。そのどちらも、私が世界を認識した瞬間に、黒猫も、あたかも今そこに突然私が現れたかのようにビックリして、足早にベランダから出て行った。

今も私は、きっと日記を書くことそのものになっていたのだろう。世界に現れた瞬間の私の目はどんな色に見えたのだろうか。

隣の保育所の庭で子どもたちが遊び始めた。2020.1.27 Mon 10:46 Den Haag

532. 自分と大切な人をゆるめる後押しをする

「幸せなら手を叩こう、幸せなら手を叩こう」

そんな歌が聞こえてきた。いや、正確には聞こえてきたのは、音楽であり、歌声。その馴染みのあるリズムが私の頭の中に自動的に日本語に変換されていた。

我が家の隣は保育所だが、子どもたちが庭で遊んでいるときに聞こえてくる声以外に、そこが保育所であることを感じさせるような物音がすることはあまりない。普段鳥の声が聞こえてくるほど静かな場所で、かつ、古い家なので上の部屋からの生活音は割と聞こえてくるのだが、隣家の音というのは左右ともほとんど聞これえてこない。

それが、どうしたことだろう。今日は随分と賑やかに歌っているのか、私がオランダ語が分かればその歌詞がハッキリ聞き取れるであろうくらいに、隣からの音が聞こえてくる。気づけば楽曲は私の知らないものに変わっている。意味が分からない言葉や音楽というのは、そこに乗っている気持ちや雰囲気だけが伝わってくる。優しく楽しい歌声に目を閉じる。

今日は日本に住んでいるコーチの仲間と話しをした。それは先日、コーチが集まるミーティングで今年の抱負をシェアしたときに彼女がエサレンボディワークを学んだということに私の聞き耳が立ったことが発端だった。チャイムの演奏もしているという。身体や音への興味が高まっている私としては思わず話をしたいと連絡せずにはいられなかった。

話した内容には詳しく触れないが、彼女が学んだという、ボディワーク(実際には、エサレンボディワークを学んだ人のつくったゆったりセラビーというもの)や、教えてもらったコシチャイム・ザファイアチャイムというものに興味が湧いている。

コシチャイムはちょうど、数ヶ月前に近所のスピリチュアル系のショップの店頭で見かけ、気になっていたものだ。フランス(ピレネー山脈の麓)でつくられているウィンドウ・チャイム(風鈴)で、複数のチャイムを並べて奏でることができるという。ザフィアチャイムもどうやら同じくピレネー山脈の麓でつくられているらしい。チャイムというのはどういう環境や状況から生まれるものなのだろう…。

ここのところ、意識や身体をゆるめるような働きかけに興味が湧いている。裏を返せば、今行なっている、言語を用いて思考を促すコーチングというのは頭を使う方向に働いているのではないかという懸念だ。もちろん、思考をする意味や意義、効果というのはある。しかし、現代社会、特に日本社会に生きる人たちにとって必要なのは、ゆるめるということなのではないかというのが、最近ひしひしと感じていることだ。自分が今用いているアプローチは、できる限り左脳的な思考だけに偏らないよう意識をしているが、それでも意識や思考を活性化させる方に働いていると思う。「ゆるめる」というのはもはやコーチングではないのかもしれないけれど、人間の営みを大きく見たときに、緊張と弛緩、どちらに偏っているかというと、あっという的に緊張なのではないかと思う。

そんなわけで、今後は日本もしくはクライアントの現地時間の22時以降のセッションは脳や身体を緩める方向に働きかけるものにできないかと考えていたのだが、音を用いるのは一つの方法としてできるのではないかという気がしている。できれば、耳だけでなく、全身で、音、振動を浴びることができるといいだろう。そんな考えもあり、コーチングと同時に、セルフケアのようなものについて伝えることを今後はやっていけないだろうかということも考えている。セルフケア、そして、パートナーのケアという言葉が、先ほど浮かんできた。

午前中の日記に、コミュニケーションは、自分を取り巻く環境や関係性との相互作用であるということを書いたが、その中で最も大きな影響力を持っているものの一つがパートナーではないか。パートナーとは単に、婚姻関係もしくは恋愛関係にある相手という意味ではなく、仕事を共に行う相手や、大切だと思っている人、何らかの深い関わりがある相手のことを指す。

そして、「ケア」というのは「世話をする」という意味ではない。(ケアよりも適切な言葉を見つけたいところだが)ニュアンスとしては「調子をととのえる(ことを手伝う)」という感じだ。私とパートナーは一緒にいるときはよくお互いにマッサージをする。これは心身を良い状態に整えることをとても助けてくれていると思うのだが、私が他の人、特に異性に同じことをしようとしても、そもそも、おそらくはお互いにそんなに安心した状態でいられないのではと思う。でも、「これはきっと、他の人にとっても良い影響があるだろうな」と思うことは間違いない。女性は比較的気軽にマッサージに行くが、男性はそうでもないという印象だ。(実際はどうなのだろう)触れ合いを伴う癒しは大きな効果がある一方で、男性はどうも、文脈上、そういったものは性的なもの・興奮を促すものに分類されてしまっているようにも思う。なんてことをここのところずっと考えていたところ、降りてきたのが「パートナーケア」という言葉だった。仕事にするとか、稼ぐということではなく、自分自身と大切な人のために、心身を整える術を身に着けるということについてもうすこしだけ一人一人が取り組むことができたなら、歳を取ることや、誰かと生きることがもっと楽になるかもしれない。

 

そこに対して、身体へのアプローチ、そして音というのは何か助けになるのではと思っている。2020.1.27 Mon 17:04 Den Haag

533. 無心で色を塗る

コーチ仲間と話しをした後、久しぶりに一番近い商店街のもう少し先にある商店街まで出かけた。と言っても、のんびり歩いて15分もかからないところだが。向かったのは画材やさん。一昨日にやってみようと決めたパステルアートの道具を買いにいくためだった。

これまでときおり、墨をすり、書に向き合ってきたが、文字から離れて感性をもっと解放したいという思いがずっとあった。しかしそれをどんな方法に乗せるのが良いかというのが見つからなかった。ハッキリと輪郭を描く、もしくは音階のように明確な基準があるものは私にとっては文字に近い。そうではなくて、もっと曖昧で、直接身体とつながって表現をできるようなもの…ということを考える中で見つけたのがパステルアートだった。中でも私が興味を持ったのは「左手で描く(塗る)」という方法だ。そういえば美大を出て今は絵を描いている従姉妹も、一日の終わりに左手でぐるぐる色塗りをするといいと言っていた。「ヒーリングアート」というのだろうか。頭で考えず無心になれるようなものに取り組んでみたい。そんな気持ちがいよいよ大きくなり、手軽で、筆などの道具を使わずにできるものを探していた。

ちょうど、小さめのパステルの50色のセットが安くなっていたので、それと画用紙、そして色が落ちないようにするスプレーと消しゴムを買い、帰ってきた。

ドイツにいたときはパートナーの持っていたアクリル絵具で絵を描く真似事をしていたが、画材に触れるのはそれ以来かもしれない。茶こしでパステルを削ると、白い上の上に細かい粉が落ち、それだけで小さなものに触れたような気分になる。そして気づけば無心でいくつかの青をカードサイズの紙に塗っていた。そのときに何かを考えていただろうか。思い出せない。ただただ、子どものように色ぬりに熱中している自分がそこにいたのだと思う。窓が開いていたら、また猫が入ってきたかもしれないくらいの気配のなさ=熱中っぷりだったに違いない。

できれば神聖幾何学をパステルアートで描いてみたいのだが、それができるには技法的なものを学ぶ必要があるかもしれない。(技法というよりも、図形の描き方のコツという気もしている。)

静けさの中で、ただただ感覚に没頭する。そんなことができる場所をオランダでつくっていきたいが、まずは自分がそんな体験を積み重ねたいと思う。

そういえば今日話した日本のコーチが、2月にハーグでフィギアスケートのチャレンジカップ(ジュニア・シニアの国際大会)があるということを教えてくれた。フィギアスケートは確か小学生か中学生の頃に母親と観に行ったことがあるが、日本では1万円以上するチケットがこちらでは1日5ユーロほどだというのはかなりの驚きだった。子どもの大会なのであまり観客は多くはないようだが、日本人の若い選手たちも出場するということでぜひ応援に行きたい。

にわかに、楽しみが増えてきた。2月は1月よりも寒いだろうか。それでもオランダで過ごすこの静かな時間が好きだし、新しい取り組みができた今、心がどんな音色を奏でるか、楽しみになっている。2020.1.27 Mon 17:28 Den Haag