526. パイプオルガンの音に包まれて

クライアントへのメッセージを送り、友人の日記を読み、ようやく自分が日記に向き合うときが来た。普段、極力人とのメールのやりとりはしないでいい環境を整えているが、それは、一つのメッセージを送るにも結構エネルギーを使うということもある。簡単な返事で済むものはいいが、そもそも今はそういうやりとりはほとんどないため、必然的に色々なことに思いを巡らせることになる。

送られてきた言葉の向こう側。語られた言葉の向こう側。そこにその人の歩んできた人生を想像する。と書くとなんだかとてもたいそうなことに見えるが実際にそうなのだ。贈りたい相手が明確なとき、言葉は自然に、どんどんと湧いてくる。声しか交わしていない相手の人生が良いものであれと、本気で願う。つくづく変わった仕事だ。いや、仕事という側面だけではできないだろう。

今日はずっと、パイブオルガンのような音が聞こえている。階下に住むオーナーのヤンさんがクラシック(彼が「シリアスミュージック」と呼ぶもの)をかけていることも多いが、今日はヤンさんの気配はない。廊下に出ると全く音は聞こえない。でも、部屋に入るとどこからともなく聞こえてくる。私が認識できる旋律やリズムがあるわけではないので、「音楽」というよりも「音」なのだが、大きな空間を包むような、包まれたような音が聞こえてくるのだ。この音はこれまでも時折耳にしたことがある。

今日のセッションもあまり記憶がない。「あまり」というのは控えめな表現かもしれない。「ほぼない」に等しい。記録を見返せば内容として思い出せるのだが、そこに対して何か自分があれこれ思考を巡らせていたのではない聴き方をしていたのだろう。最近の日記にも書いたが、河合隼雄さんも人と話したことをすっかり忘れているとインタビューの中で話していたことがあった。経験を積んだ大家の方と比べるのはおこがましいが、専門家として、ある水準を満たした聴き方とはだいぶ一体になってきたのではないかという気がしている。慢心は危険だが、ここからさらに、次なる「聴き方」を目指していきたい。

コーチングにおいても他の領域においても、「知識」として取得しそれを実行する段階と、さらに「知識」として(一般化・言語化・体系化して)伝えることは難しい段階、そしてさらにそれを超えたものがあるのではないかという気がしている。だから、ある意味コーチのような存在が必要になる。中には、どうにかこうにか言語化・体系化をして伝えようとしてくれているものもあるだろう。しかしその本質を読み解くには、最初の段階とは違った見方でそれに向き合わなければならない。結局のところどこまで言っても自分の現在の認知の枠組みでしか物事は捉えられず、逆説的だが、認知の枠組みを直接超えようとする取り組み以外のことで、これまでの枠組みを超えていけることができるのだろう。やはり河合隼雄さんの言われる「すっかり忘れている」は、今の私の「すっかり忘れている」とは、質的にひとまわりもふたまわりも、きっともっともっと違うことなのだ。

そう思うと、何て道は長いんだろうと思うけれど、だからこそ続けることができるのだとも思う。たどり着くことのない果てがあることは学びと実践と成長の喜びをもたらしてくれる。今とは全く違った感覚で他者と対話ができるようになると思うと、これからがまた楽しみになってくる。そうなるまで、心身が健やかに、楽しみ続けていくというのが目下のテーマになりそうだ。2020.1.20 Mon 19:56 Den Haag