525. 言葉が届けるもの

10個以上開いたワードのファイルを一つ一つ確認し、閉じていった。これは、おそらく昨日、パソコンの電源が落ちてしまい、その後自動保存されていたファイルが自動的に開いたことによるものだ。現在使っているMacは電池残量が20%を切ると突然電源が落ちてしまうことがある。昨日はそれがパソコンを閉じている間に起こったようだ。以前は大量に開いたウィンドウを見るだけで、「うわー」と、思わず体が傾く億劫な気持ち(会社員だったころ、毎月月末の経費精算のときにもいつも同じ感覚を感じていた)になっていたものの最近はそうはならなくなった。しかしながら一つ一つ、内容を確認する作業というのは地味に手間がかかる割に、その後特段得るものがあるわけではない。「生産性」というものを気にして生活をしているわけではないが、できればこの作業に時間やエネルギーを使わないでおきたい。充電の残量表示が30%を切っても尚、充電器につないでいないということが良くないのだろうか。しかしそれでは残量表示の意味はほとんどないようにも思える。(充電器につなぎっぱなしはバッテリーに負荷がかかるため良くないという説を聞いたことがあるが、真偽のほどはいまだによく分からない。) そんなことを悩みの一つとできることは、ある意味幸せなことなのかもしれない。

ウィンドウを閉じる前、オランダに住む友人の日記を読んでいた。友人の日記を読んでいるといつも、だんだんと呼吸が深くゆっくりになってくる。「歩く瞑想」があると聞くが、言うなれば「読む瞑想」をしているような感じだ。言葉というのは、それを書いた人のそのときの心や体の状態、波動のようなものが宿り、読む人に伝わっていくような気がしている。筆跡の分からないデジタルな記号としての文字であっても、言葉そのものには何か呪術的な力があるのではないか。

人からもらったメッセージを読んでも、その人が過ごした時間や感じたことが心の中に流れ込んでくるように感じることがある。その流れの強さ、鮮やかさは、メッセージの長さとは比例しないのが不思議だ。結局のところそれは、私の中にある想いや景色なのだけれど、その想いや景色に「触れる」何かはきっと、言葉を通じて、相手が言葉を綴った時間が織り込まれ、届けられているのだと思う。

一昨日の夜から昨日のお昼過ぎにかけてセッションが続いたため、昨日はそれ以降、半分魂が抜けたように過ごしていた。基本的に私の聴き方は何か私自身の心に直接影響を与えるものではないけれど、そうあるためにものすごい集中力とエネルギーを必要としていることは間違いない。ほぼ自動と言っていいくらいの反応として、タイピングをしてメモを取っているので、後からそれを読み返せば何を話したかは分かるのだが、記憶としてはほとんど残らない仕組みになっているらしい。「仕組みになっているらしい」というのも変な言い方だが、意図してそうしているというよりも「必要に応じてそうなっている」というのがしっくりくる感覚だ。評価や個人的な感情を手放して聴くというのは、瞑想状態にも近いのかもしれない。しかし闇雲に聴くのではなく、真っ暗闇の中で小さな光、目には見えない光を見つけるセンサーを働かせながら聴いているので、ある意味、ものすごく、意識の領域は活発になっている。頭の中のどこを使うかというのは意識的に切り替えることができるものなのだろうか。仮にそれができたとしても、頭の中に流れ込んでくるものを意識的に切り替えることは今の私には難しい。だからこそ、今は日本語に取り囲まれる環境からは距離を置くのがちょうどいい。

オランダや、今の家が、今の私にとってはとても心地よく具合がいいということを最近つくづく実感している。2020.1.19 20:18 Den Haag