522. あなたは何者なのか、わたしは何者なのか

8時すぎに始まった打ち合わせを終え、湯を沸かし、バナナを焼いた。湧いた湯をマグカップにまだ半分残っている、小麦若葉のドリンクに注ぎ足す。両面に焼き色がついたバナナにヘンプシードをかける。

こんなときに、これまでの1ヶ月ならあれやこれやと話をする相手がいた。
それがまた、何事もなかったかのように、一人静かに淡々と過ごしていく時間に戻っている。
以前だったらもっと「楽しかったなあ」と、今ここにはない時間に想いを馳せていたかもしれない。

淡々と過ごすことができるのは、そのときそのとき、そこにある時間を味わっているという実感があり、一人で過ごす今ここにある時間をそのままに味わっているからだろうか。

書斎の窓から外を見上げると、北西の空から南東の空に向けて日本の飛行機雲が走っている。一本は、線がぼんやりとふくらみ、もう一本は途切れ途切れになり、消えていっている。さして離れているように見えない二本の線は、実は全く違う世界を旅しているようだ。

人間もそうなのかもしれない。
なんとなく、並走しているように見える人がいる。
同じ方向に向かっているように見える人がいる。
でも、それぞれに、どこから来たかも、どうやってここまで来たかも、どこに行くのかも違う。

何の本だったかは忘れてしまったが(ノートに書き留めたはずだが見当たらない)最近読んだ本に、「傾聴とは、相手のことを知ろうとすることだ」ということが書いてあった。

その言葉と、先日、ハーグにあるマウリハイス美術館で見たいくつかの肖像画や風景画のことがつながる。昔はゆっくりと絵を描くだけの時間があった。いや、もしかしたら、食べるために労働をして、絵を描く時間を捻出していた人もいたかもしれない。いずれにせよ、絵を描くのには(特に美術館で見たような、繊細で大きな絵を描くためには)膨大な時間がかかったはずだ。

それはきっと、描く対象を知ろうとするプロセスでもあったのだと思う。その人から滲み出る憂いや悲しみ、そこはかとない孤独。「あなたは何者なのか」と、心の中で問いかけ続け、聞こえてきたものが絵筆を通して表現される。

 

それは、同時に「自分は何者なのか」という問いと向き合うことでもある。「あなたは何者なのか」を問い続けたら、それを問うている自分に嫌が応にも気づくことになるだろうから。

今はそんな風に、人と、自分と向き合うことのできる時間が圧倒的に少ない。
でも本当にそうなのか。それだけなのか。

人間をどこかで、「解明できるもの」「分類できるもの」として扱うようになったのではないか。
人間そのものよりも、人間がつくりだすものごとの方が、重要になったのではないか。

「相手のことを知ろうとすること」

そこに、立ち戻ることなく組み立てられていく未来に、人の心が生きているという気がしない。
2020.1.16 10:16 Den Haag

523. 出不精の筋トレ道具と選択のこと

昨日の日記をアップし、ケトルに水を加え、電気コンロのスイッチを入れた。キッチンのIHでも湯を沸かすことができるが、リビングに置いてある電気コンロの方、がゆっくり静かに湯が沸く。人がいれば、話しながらお茶を入れることもできる。一人だからこそ、自分をもてなしたいとも思う。

朝の打ち合わせを終え、日記を書いた後、街の中心部に出かけた。先日動画で見て興味を持ったセラバンドを、スポーツ用品店で購入するためだ。「姿勢が良い」ということは、他者に与える印象を良くするだけでなく、思考も良い状態にしてくれるという。私は両肩が前に入り背中が丸まりがちなので良い姿勢を保てる工夫をしたいと思っていたが、「早起きは三文の得」くらいに、姿勢を良くすることは良いことがありそうなので、これを機に姿勢を良くすることに取り組むことにした。

そして、せっかくなので、以前その店で見て気になっていたバランスディスクも購入しようと考えながら家を出た。バランスディスクは、潰れた小さいボールのような感じだが、場所も取らず、体幹を鍛えるトレーニングに活用することができるようだ。体幹を鍛えたいと言うと、そんなに身体を鍛えようとしているのかと思われることもあるが、何てことはない、極端に運動不足なだけだ。一般的(というのもの何が基準かは分からないが)に、通勤をしている人はそれだけで少なくとも往復2kmくらいは歩いているのではないだろうか。健康のために1日1万歩歩くのが良いとも言われるが、それより少ない歩数、例えば8,000歩くらい歩いているとし、2歩で1mくらいは歩くとすると、1日4kmは歩いていることになる。それが私の場合は、デスクとキッチンとトイレの行き来しかせず、100歩も歩いていないんじゃなかろうかという日があるくらいだ。パートナーがオランダに滞在していた間はよほど天気が悪い日は除いて1日に1回は外に出て散歩をしていた。(その分、2日に1回は甘いものを買って帰って来ていたが。)ここ数ヶ月、何度も運動を習慣づけようとしてきたが、結論としては、天候や気温に左右されるもの(外に出なければならないもの)は続けられない。極度の寒がりであり、割と出不精な私は、よほどのことがないと普段は外に出る気にならないのだ。そこをどうにか頑張ろうというのは、短所を無理やり伸ばそうとすることくらい、私にはエネルギーが必要なことだ。であれば、どんな日にも家の中でできる運動をすることにしてしまえと開き直ることにした。というわけでの、バランスディスクの導入である。

 

行きはトラムで中心部まで行ったが、目当てのセラバンドとバランスディスクを購入し、帰りは歩いて帰ることにした。家と中心部の間は、ずっと商店街が続く道を選べば、歩くことに飽きずに散歩を続けることができる。

中心部近くの古着屋に寄ると、鏡の前にいる女性がスタッフの男性に話変えている声が聞こえた。どうやら「どちらがいいか」と2つの洋服を比べているようだ。男性は「どちらも似合っているが、自分はこちらが好きだ」というようなことを言っている。どんな服を比べているのだろう、と、覗いてみると、背の高い女性が手にしているのは着物だった。ナイロンのような生地だろうけれど、こちらでファッションとして着るにはちょうど良さそうだ。どちらも柄としては植物がモチーフになっているが、片方は葡萄色(えびいろ)で柄が描かれていて少し落ち着いた印象のもの、もう片方は石竹色(せきちくいろ)がベースで、落ち着いたトーンではあるがいくつかの色を使った花の柄が入っていた。「キレイですね」と声をかけると、女性はやはり「どちらにしようか迷っている」と言ってきた。どんなときに着るのかと聞くと、夏に着るのだと言う。夏にこれをどうやって着るのだろう?と、頭の中にハテナが浮かぶ。その形状からして、ナイトガウンのような感じで羽織るのだろうか。それとも、外に出るときのファッションとして楽しむのだろうか。そんなことを考えていたら、さらに横からおばあちゃんが「私はこっちが好きだわ」と声をかけてくる。「普段の私のファッションはこっちなんだけど」と、女性は葡萄色の方の着物を羽織る。確かにそちらは落ち着いていて、年齢的にもその人に合っているように見える。もう一つの方はベースの色がピンクがかっていて柄も華やかなせいかすこし可愛らしく見える。着物の美しさはそちらから感じるが、その女性自身の美しさが生かされるのは、落ち着いた柄の方だ。それを伝えたいが、英語ではなかなか上手い表現が見つからない。「普段の私には…」とまた女性が繰り返す。そして「今日はこれだけどね」と笑うので、見ると女性は、スパッツにカットソー。ランニングの途中で立ち寄りましたという感じだ。女性がその後もああかなこうこうかなと迷い続けた挙句、「また明日来るわ」と男性のスタッフに話す声を聞きながら、店を出た。店を出ながら、「普段の自分としてはこっちというのが分かっている上で、もう一つの方が気になっているのはどうしてだったんだろう」という疑問が頭に浮かんだ。何か、その人の中に普段は表現していない面があるのかもしれない。もしかしたら、何が新しいことに進んでいきたいのかもしれない。

そうして考えると、洋服であれ、その他のどんなものであれ、人が選択をするものに関わるというのは、その人の在りたい姿を実現することを手伝うことなのだとも言える。多くの場合、人は「もの」を手に入れたいのではない。その「もの」を手にいれることによって手に入る何かを手に入れたいのだ。(それに気づいていないと、いくらものを手に入れても、満たされないということも起こるだろう。)そして、選択には少なからずエネルギーを使う。だから私は一つのもの、例えば豆乳一つを買うのにもいくつもの選択肢がある一般のスーパーではなく、ほとんど選択肢がないオーガニックスーパーで買い物をする方が好きだ。ちょっとしたことだが、日々、ちょっとしたことの選択にいちいちエネルギーを使っていると、ここぞという必要なときに使うエネルギーまで消費してしまうように感じる。「普段の自分が来ている服を着て選択をしてみる」というのはある意味良い選択の仕方かもしれない。高揚した精神や身体の状態では、特殊な基準での選択になる可能性がある。普段着の自分が、しっくり来るものを選ぶか、もしくは、もっとこうなりたいというものを満たすものを選ぶか。選択の質を上げるというのは、結局のところ自分自身の思考と身体、心の状態を整えることによって生まれるのだろう。

オランダに来て1年半が経った。思い返せば、その間購入した洋服は片手で数えるほどだ。生きていくこと、心を満たすことに必要なものは、そう多くはないのだと思う。2020.1.16 20:55 Den Haag