520. あたたかい冬と、階段を昇る夢

あたたかい。玄関の扉を開けた瞬間に思った。シャワーを浴び、太陽礼拝のポーズを繰り返したことで身体があたたまっていたというのもあるだろう。ドイツ一昨年の冬に、ドイツで購入した真冬用の上着を着ているというのもあるだろう。心身がもっと厳しい寒さを予想していたということもあるだろう。それにしても、「寒くない」ではなくずいぶんと「あたたかい」ように感じた。

昨年の冬、オランダは比較的あたたかかったと聞いた。いつもなら凍るはずの運河が凍ることなく春がやってきた。それでも降り積もった雪が解けずに残っていた期間が2週間ほどはあったと思う。

そんな昨年よりもさらにあたたかい。

そんな中、昨晩から今朝にかけてずっと、強い風が吹いていた。バタバタと何かを揺らす音の中、眠りについたことを覚えている。

かけていたつもりのなかった目覚ましが鳴り、二度寝をしている間に夢を見た。舞台は学校。覚えているのは最後の場面だけだが、昨日に続いて何だか奇妙な感覚が残っている。学校を出て駅に向かった私は、駅につながっている商業施設のような場所に入り、前の人に続いてエスカレーターに乗った。しかし、降りたところは踊り場のような、何もないところで、さらに階段が続いている。しかし、階段は視覚的には「くだっている」ように見える。「この階段を降りたら元いた階に戻ってしまう」と思っていると、後ろから来た人が不思議そうに私を見て、「ここを昇るんだよ」というようなことを言った。もう一度階段を見ると、それは降りではなく昇りの階段になっていた。しかし、その先にはまだ駅の入り口のようなものはない。「この、半分ずつ階を進んでいくことをいつまでやらないといけないんだろう」と思いながら、吹き抜けになっている空間の向こうを見ると、そこには一気に上の階まで続いているエスカレーターが見えた。

そちらの方に行こうとして、吹き抜けの下のホールのようなところを歩いているときに上着の左のポケットに手を入れて、中に入れていたスマートフォンを取り出そうとすると、出てきたのは縦に長いバーのような(初期の携帯電話もしくはPHSのような)電話だった。電話全体を包むようなプラスチックのような入れ物に入っている。「あれ、これは私のスマートフォンじゃないぞ」と焦る。「私の持っていたものはこんなに縦長くなくて、もっとコロンとした形だったはずだ」と、思いながらキョロキョロしていると、足元にもともと持っていたスマートフォンのようなものが転がっていた。手にした細長い電話と同じように、全体をくるむ透明のカバーの中に入っているが、その入れ物にヒビが入っている。「あらら、割れてる。本体は大丈夫かな」と思って、カバーの中の画面の部分をよく見ると、そこは割れてはいないが、見慣れた画面ではなく、いくつかの数字や記号が書いてあり、それを見た私はそれがラジオであることが分かった。というところで目が覚めた。2020.1.15 9:43 Den Haag

追記:降りだと思った階段が昇りだったというのは本当に奇妙な感覚だった。人生とはそういうものなのかもしれない。一見、後戻りをするように見えるものも、前に進む道につながっている。そして、地道に階を昇ろうとしていると、一気にエスカレーターに乗りたくなるが、そこには何か落とし穴があるということが昨日の夢は示していたのかもしれない。2020.1.16 20:01 Den Haag

521. 暗くなった中庭に浮かび上がる暮らしを眺めながて

開いていたウィンドウを一つ一つ閉じた。こうして、「終わり」や「区切り」をつけることが、心に余白をつくりだしてくれる。

企業で仕事をしていても、一人で仕事をしていても、仕事の区切りが綺麗に訪れるということはなかなかない。終わったと思ったら既に新しいことが始まっている。

「人が幸福感を感じるのは、一つのことに集中している体験からだ」という研究報告があることを知った。マルチタスクでは幸福感は得られないのだと言う。一方で、「完了感を感じられることはついつい優先してやりたくなってしまう」という脳の性質もあると聞く。だから、キリがないと分かっていながらメールの処理を優先してしまう。ちょっとした完了感は感じられるが、本当に大切なことに手が付けられないままになって時間が過ぎてしまうことになる。

人間の脳の仕組みというのは面白い。「仕組み通りに動いている」と言うと、なんだか人間を機械のように捉えているとも取られかねないが、仕組みを知り、試しに検証してみて、その上で、自分自身の向かいたい先や在りたい姿に向けて活用することは大切なことだと感じている。

先ほどから、書斎にはベーコンを焼いたような香ばしい匂いが充満している。下の階に住むヤンさんが料理をしているのだろうか。窓からは、向かいの家の一家が食事をしている様子が見える。先ほど、キッチンのオーブンで焼きあがったピザをお父さんらしき人が食卓に運んでいた。いつも食卓を共にしている女性(お母さんらしき人)は今日はいない。男の子二人と、男性が三人で食卓を囲んでいる。

 

その隣の家では、白髪の女性がキッチンに立っている様子が見える。人の暮らしを覗き込もうとしているわけではないが、中庭を挟んで向かいの家々の窓は、劇場もしくは映画のように、そこにある人々の暮らしを映し出している。それは同時に、こちら側に私の暮らしが映し出されているということでもある。

今日は自分自身のコーチとの対話の時間を持った。「ちょっとしたモヤモヤ」が、実は自分にとってとても大切なものと繋がっていたということが分かり、改めて言葉にすることの大切さというものに気づいた。

自分の中での正しさや美しさ。それは時に他者との対立を生んでしまうけれど、それを大切にせずして、自分の心に正直に生きているとは言えるだろうか。そんな自分では、クライアントと向き合うことは難しいと感じている。

もっと自分自身が人間として成長すれば、今、許せないと思うものも許せるようになるのだろうか。全てのものをあたたかい愛で包むことができるようになるのだろうか。今、どのような構造の葛藤が生まれているかは見えてきたが、どうしたらそれを超えることができるかについてはまだ分からない。急がず、焦らず、今は今信じることに心を尽くしていきたい。2020.1.15 18:25 Den Haag