518. 心に溢れる言葉と感覚

朝の打ち合わせを終えて以降、ずっと、誰かにメッセージを送ったり、受け取ったりということを続けていた。その間私はどんな風に息をしていただろう。

静寂をつくり出していた雨はいつの間にか止んでいる。書斎の窓の向こうから、微かに小鳥の声が聞こえてくる。日常が、一人の時間が戻ってきた。

楽しい時間はいつもあっという間で、その時間が特別なものだったということにいつも後になって気づく。どんなにその瞬間に「幸せだ」と思ったとしても、それがどれだけ幸せなものなのかということは、過ぎ去ってから気づくことになる。

1ヶ月のオランダ滞在を終えたパートナーが、昨晩日本に戻って行った。スキポール空港の端の方にあるセキュリティチェックのゲートを抜けて手を振る彼を見送り、ターミナルの通路を歩いていると、あっという間に心の中が言葉でいっぱいになった。心に浮かんだことをその瞬間に伝えることのできる相手がいたのだということ、それが私にとってはとても幸せなことだったということに気づき、そんなに大切な気づきを、その場で伝えられる人はもういないということに気づき…寂しさが織り重なっていった。

それでもその寂しさはこれまで感じてきた寂しさとは少し違うようにも思う。「また帰ってくる」そう思えるようになったのだと思う。

特定の人と長い時間を過ごすというのは、楽しみもあるが恐ろしさもある。「私」もしくは「私たち」の常識が無意識の中で形成され、その常識に当てはまらないものを受け入れられなくなるのではないかという恐ろしさ。それはもちろん、小さな関係性の中だけでなく、自分が身を置くコミュニティや社会の中でも起こることなのだけれども、自分が「どんな考え方の中にいるか」に無自覚になることほど、今の私にとって怖いものはない。それは私がコーチとして人の話をフラットに聞けなくなることを意味している。自分自身が一体になっているものというのは常にあって、それを全て客観的に捉えることはおそらく不可能に近いし、たとえそれができていないとしても直接的に何かが起こるわけではないかもしれないけれど、だからこそ怖いのだ。

知らないうちに、他者を自分の意識の枠組みの中に閉じ込めるということは、その人の可能性に制限をかけることにもなりかねない。そんなことが起こっているということ自体、なかなか気づく人はいないだろう。そもそも可能性というのはそんなに簡単に制限されるものでもなく、どんな障害があっても花開いていくものなのかもしれない。「持っているものは自然と開いていく」ということを信じながらも、自分の意識や言葉はそこにどんな影響を与えているのかということは考え続けたい。2020.1.14 10:55 Den Haag

519. 「私」が死ぬ夢

今日は不思議な夢を見た。目覚めたときよりもだいぶ記憶は朧げになっているけれど、覚えていることだけでも、無秩序にでも書き留めておきたい。

今日の夢を振り返って不思議に感じたのは、夢の中で「自分」を見る視点が存在していたことだ。

夢の中の「私」は、話の流れの中で一人の男性と仲良くなった。そこから、その男性が「私」と結婚式をしているという会場に行くことになった。会場は、入口は街中のビルのような感じだったが、中に入るとそこにはビーチが広がっていた。芝の場所もあれば、砂の場所もある。そんな中で結婚式の参加者が思い思いに寛いでいるが、総じてあまり楽しそうではなかった。そして、誰かが、新郎新婦が大変なことになっているということを口にし、周囲を見渡すと海のような湖のような、大きな水溜りのようなところに、船のような寝袋のようなものが浮いており、その片方には男性が、もう片方には「私」が、青い顔をして横たわっていた。そんなところで目が覚めた。

そして、夢を思い返していて不思議な気持ちになった。途中までは確かに私は「私」の視点で夢の中の世界を見ていたはずだ。それが気づけば、第三者の視点で世界を見つめており、そこには男性と「私」の死があった。では、それを見ていた私は誰だったのだろう…。

こう書いている今も、不思議な浮遊感がある。「これを書いている”私”は誰なのだろう」と思う私がいる。夢と現実、その「あわい」にまだ自分がいるような気がしている。2020.1.14 11:09 Den Haag

519. 壁の方へ

強い風の音で目が覚めた。別の方角からは、ウォーンウォーンと、犬の遠吠えのような音が聞こえる。珍しく立ち現れている騒がしさが、その向こうにある静けさを際立たせる。

昨日までの日々が夢だったようにも思えるし、今がまだ夢の中にいるようにも思える。そう言えば今日は昼前に書いた日記でもそんな感覚に触れていた。1ヶ月前と今が違うことを、日本から運ばれてきた書籍が入り、隙間が減っている書棚が教えてくれる。

ここのところ、繰り返し、とあるテーマについての向き合い方を突きつけられているように思う。これはどういうテーマなのだろうと考えると、「どう生きるか」ということなのだろう。それぞれの人がそれぞれの想いを持っている。想いは、ときに思惑になる。今の私にとって、他者と想いを共にすることは喜ばしいことだが、思惑の中に入ることは息苦しいことのように感じる。

この違いは何なのだろう。私は、「他者が、自分が思うように私のことを動かそうとすること」に敏感であり、嫌悪感さえも感じる。それは、同じように他者のことを思い通りに動かそうとする自分がいるということを知っているからだろうか。それでも、その思惑のようなものがストレートに伝えられたときはまだ良いのだが(その時点で思惑ではないのかもしれない)、あれこれと「あなたのため」という口実をつけて、他者が自分を動かそうとするように感じてしまうと、途端にそこからは距離を置きたくなってしまう。これはやはり、自分の中にもある支配性のようなものと、同時に、幼い頃から体験してきた「他者の無言の期待」のようなものに対する反発心があるのだろうか。比較的「無言の期待」は少なかった方ではあるのではとは思うが、それでも、「○○は□□した方がいい」という慣習のようなものの中に、特に高校生以降は身を置いてきたようにも思う。

今、自分の限界をつくり出しているものは何だろう。

これまでであれば、「それを解体するには」ということも考えていたが、今は、その限界の方向へ、もっと強く動いてみてもいいという気がしている。目の前の書棚の本の中に「野口整体」に関連した本があったはずだ。その中に「まずは今動く方に動かせば、それから、動かない方向にも自然に動くようになる」という話が書いてあったように思う。ここのところの私はどちらかというと、「事なかれ」というか、あまり強い主張をせず、割とソフトな人あたりでやってきたが(周りはそうは思っていないかもしれない)もっとこだわりを持って、それを表現してもいいのかもしれない。まだ「こだわる」ことのスタートさえ切っていないような気もする。

中庭にはまだ強い風が吹いている。思ったよりも、自ら風を起こし、海に分け入っていくような一年になるかもしれない。2020.1.14 18:35 Den Haag