516. 想いの種

早めにやっておく作業がひと段落ついた。4日前から、オランダで3年間の教育武者修行を終えた友人のインタビューの公開をサイトで始め、連載形式で1日ずつ公開していっている。インタビューとしてお伺いしたものをまとめたものにさらに加筆を加えていってくれているため、公開前に原稿や写真のやりとりをし、やっと公開、という、新聞社のような?やりとりが連日発生しており、珍しく時間に追われている感覚だ。いや、時間に追われているわけではない。自分たちが良いと思えるものを世の中に届けるのと、どこまで時間をかけるかのせめぎ合いと言ったほうがいいだろう。普段、締め切りに追われる仕事というのも、人とテキストメッセージのやりとりをし続けるということもほとんどないため、この感覚はとても新鮮だ。「良いものを届けたい」「想いを届けたい」という気持ちが重なり合うこと、そのためにライブ感のあるやりとりをすることの新鮮さと楽しさを感じている。

言葉というのはつくづく不思議だ。自分の心の中にどんな言葉があるのか、見ることはできない。感覚が鈍っていると「ないのかもしれない」とさえ思う。しかしそんなことはない。心から興味を持って耳を傾ける聞き手に出会ったとき、想いの種から、ぐんぐんと言葉の芽が出てくる。茎が伸び、葉が伸びていく。そして同時に想いの種そのものもさらに育ち、どんどんと根が伸びていく。そして気づけば、花が咲く。

心と環境と時間。この条件が揃ったとき、どんな種からも、小さな芽が出てくるのではないかと思う。

少し前から、河合隼雄さんの本を多く読んでいる。ある本の中に、「私は、クライアントが、先生は何もしてくれなかったと思うのがいいと思っている」というような話が出てきた。その感覚はとても共感する。クライアントが自らの力で歩みを進められたと思える、その実感を持つことこそが、その後の長い人生を歩んでいくことにおいても大切なことなのではないか。だから私はセッションで、私の存在を強く感じながら話をされるということがとても心地悪い。もちろんそれはプロセスとして通る場合もある・必要な場合もあると思うけれど、「あなた」と「わたし」の関係がそこにあり続けるということは、場合によってはクライアントが自らの力を花開かせていくことを阻害しているのではないかと思う。

「教えてくれる相手」だと思われることはもちろんのこと「理解してくれる相手」や「共感してくれる相手」と思われることは、望むものではない。(共感的理解を示すというのはある意味コーチやカウンセラーとクライアントとの関係性の土台となるものだが、それが依存を生み出すものになってはいけないと思っている。)

一方で、自分が意図せずとも何かのモデルとなっていくのだということを最近感じるようになった。私はコーチとしてのパフォーマンスを上げるために、やむをえず(というと後ろ向きのようだが、必要に迫られてということは私にとっての事実だ)現在の環境にいることを選んでいる。それがあたかも、誰かにとっては自分が目指したい姿のように映る。こういう暮らしがおすすめかと聞かれたら、「万人にとって良いとは言えない」「あなたが何かをつきつめて突き詰めて取り組んでいって、それをより良いものにするために心の静けさが必要であるならばこんな方法もあるかもしれない」と言うくらいだろう。それでも人は、モデルや正解をつくりたがる。ストイックさの中で手放しているものはたくさんある、それはある見方をすると何かが欠落しているとも言える。

生き方に正解などない。

なぜ、このことを書いていこうと思ったのだろう。自分の心の声に耳を傾けたからだろうか。自分にそう言い聞かせたいのだろうか。2020.1.9 12:20 Den Haag