512. 誰がために

昨晩は久しぶりに尊敬しているコーチの一人である宮越大樹さんのYouTubeの動画を見ていたら、大事にしたいことが次々と湧いてきた。特に印象的だったのはクライアントを選り好みしなさいという話。「選り好み」と言うと聞こえが悪いが、それはつまり「誰の応援をしたいか」ということだ。

このテーマは、まさに昨年の後半、ずっと考えてきたことだった。

人の話を聞くというのは奇妙な仕事だ。「話を聞く」という能力はほとんどの人に備わっていて、気持ちがあり、やり方が分かり、環境が整えば誰もが行うことができる。しかし、実際にはそれらが揃うということは現代社会においては難しい。だから「コーチ」というのが職業になる。でも「コーチング」は、本来、人が能力を発揮することを支援していることが自然にやっていることを体系化しただけのものだ。目の前の人の成長を願い、一人一人にとって自然なペースでそれが起こっていくことを見守ることができたなら、誰にでもできることだ。だから私は、「コーチ」という職業がいらなくなる社会になることを願っている。一人一人が自分自身や他者と向き合う、精神的・時間的な余裕を持つことができるようになること、それが私の、世界に対する願いでもある。そうなるまでにはまだ少し時間がかかりそうで、それには社会に対する色々な働きかけをする必要があって、そのために私は、対価をいただいてコーチをしている。

そしてコーチという仕事を通じて、世の中には想いを持って何かに取り組んでいる人・取り組もうとしている人がいるということを学んできた。形は違えど、誰もが何らかの想いを持っているとも思う。ではその中で、限られた人生の時間を、誰と関わり、誰を後押しすることに使っていきたいかと考えたときに浮かんだのが「誰かのためにがんばる異端者」という言葉だった。世の中には、「自分自身が認められること」ではなく、「誰かに喜んでもらうこと」「誰かの暮らしを良くすること」「誰かの幸せをつくること」に取り組んでいる人がいる。その人たちは時に、自分のことを後回しにしてまで頑張ってしまう。そして、ある特定の集団や慣習のもとにおいて「変わり者」とされる人がいる。でもそれはたまたまそのコミュニティの中でマイノリティであっただけであり、それでもそこからはみ出ようとする人たちは挑戦者であり、開拓者でもある。そういう人たちは時に孤独だ。

これは「その人たちが偉い」とか「優れている」とか「価値がある」とかそういう話ではなくて、ただ自分自身がそう言う人たちに強く共感を覚えるというだけの話だ。なぜなら自分自身がそうだから。

世の中にはコーチを必要としない人もたくさんいると思う。それは、周囲に共感を持って話を聞いてくれる人がいるという恵まれた環境だとも言える。たまたま生まれ落ちた場所で「異端」とされた人たちが自らの道を切り拓いていくこととともにあることが私がコーチとして在りたい姿であり、そこには仕事として行う価値があるだろうと感じていることだ。

図らずも、年頭の所信表明のようになった。「どうにもこうにもそうせざるを得ない自分」と葛藤し、それでも歩みを続けようとする人とともにあれるよう、まずは私自身が想いを言葉にし続けていきたい。2020.1.4 Sat 10:55 Den Haag