509. 1月1日の客人

今日も中庭のガーデンハウスの上には、黒猫が丸まっている。あの猫はいつも外にいて寒くないのだろうかと思う。家の中にいれば、ぬくぬくとあたたかい時間が過ごせるだろうに、それでも猫にとっては外にいる時間が必要なのだろうか。それとも、目の前の興味を追いかけてきたら外に出ているという感じなのだろうか。

スマートフォンの時刻表示と、通りに残った花火の残骸以外に今日が1月1日だと知らせてくれるものはない。今朝、昨年ロンドンのボタニカルガーデンで購入した2020年のカレンダーをめくり、今日が水曜日であることを知った。しかしそのカレンダーも、何か普遍的なものを教えてくれるものではなく、人間の作ったリズムやルールを確認しているに過ぎない。

新しい年とは、こんなに静かで穏やかなものなのだろうか。それでもどこかで「新しい年」と感じている自分がいることが面白い。

午前中、部屋の片付けをしながら、今年は言葉の情感を感じるようなワークショップを開きたいという考えが浮かんできた。それは昨日、オランダ人の会議はストレートで無駄がないという話をネットで読んだときに浮かんだ小さなひっかかりのようなこと起因している。その記事に対して「会議に詩的なやりとりは不要だ」といった日本人のコメントが寄せられていた。確かに、会議の場面においてはそうかもしれない。しかし、効率を重視する中で情感や情緒のようなものがどんどんと失われていってはいないだろうか。曖昧なものをゆっくりと言葉にする時間を脇に追いやってしまってはいないだろうか。これは、数日前に浮かんできた「言葉の身体性を取り戻す」というテーマにもつながっている。

役に立たないもの。何が手に入るか分からないもの。そんなものこそが、今私たちにとっては必要なのではないだろうか。いや、「必要」とさえ思わなくていい。論理的・思考的にその価値が判断できないことを体験する機会を、ただただ作っていきたいという想いが湧いていきている。

今日は先日アムステルダムで会った日本人の知人と、オランダで盛んだというボードゲームをして遊ぶつもりだったが、体調が良くないということで持ち越しになった。楽しみにしていたので残念ではあるが、昨晩、先日教えてもらった「ガイスター」というゲームを手作りし、パートナーと二人で大いに楽しんだため(おそらく今日も二人で何度か楽しむことになるだろ)気持ちとしては満足している。ボードゲームはコミュニケーションツールであり、「癒し」でもあるという話を聞き、どういうことだろうと思っていたが何となくその感覚はわかるような気がしている。ゲームという世界の中で対立や葛藤を大いに味わう。大晦日の賑やかな花火と同じように、何かを思いっきり味わい楽しむ時間があるからこそ、オランダの人は普段穏やかで軽やかなのかもしれない。

掃除もして、家の中は気持ちがいい。今日の客人は自分自身だったのだ。2020.1.1 Wed 15:05 Den Haag