137. 時の流れと感謝

ヨガを終えてココナッツオイルを含んでいた口をゆすぎ、寝室からベランダに続く扉を開けた。いつもならひんやりとした朝の空気に出会うが、今日はその姿を隠し、肌に馴染んでくるような空気だ。階下の庭にある小さな池を覗くと、今日もそこに小さな蓮のつぼみがそっと佇んでいる。つぼみの先が割れ、黄色い花の色がのぞいている。今日はあの蓮は開くのだろうか。耳を澄まさずとも、色々な鳥の声が聞こえてくる。この中庭はワンブロック分の家がつながった中にあり(30軒ずつの家が並んでいる感じだろうか)我が家はちょうどその真ん中あたりに位置するので左右どちらを見ても中庭の端が見えない。その代わりに、左右どちらの庭も、少し先に、我が家の前に立っている木よりさらに大きく葉も茂っている木々が重なり合うのが見える。その茂みの先からか、甲高い声、リズムを刻む声、様々な鳥の声が聞こえる。この家に住んで9ヶ月になるが、こんなにも鳥がいること、彼らが朝美しい音楽を奏でていることを今日まで気づいていなかったのだと思った。

そして今、この家に来てからの時間を指折り数え、今月が終わると丸10ヶ月になることに驚いた。今日ちょうど、ヨガをしながら「時間の感じ方」というテーマが頭に浮かんだところだった。日本で仕事をしていた頃、特に東京に来てからは驚くほど早く時間が過ぎ去っていったように思う。それは、周囲の景色を見ながら全速力で走ると言うより、ふと顔を上げると季節が巡っていたという感じだ。もちろん、そのときはボーッとして景色を見逃していたわけではなく、目の前のことに必死だ。そこに喜びや悔しさ、そして成長もあったと思う。しかし、今思えば、そのときの私は、言うなればとても雑に世界を捉えていたように思う。それに比べると今は、向き合う世界、過ごす時間の解像度が上がり、より細やかな世界を味わうようになった。1分、1秒、1時間という刻まれた時間ではなく、流れとしての時があり、そこにゆっくりと共にある感じだ。その結果、1日1日が以前よりも長く充実したものに感じられる。同時に、ぐっと引いて、大きな時間と空間の中にいる自分も感じる。その中では私はゴマの粒の一つよりも小さく、そして今、生きている時間は一瞬にすぎない。そうするとその中では、「計らいの中で生きているのだ」という気がしてくる。鳥も木々も草花も人間も、その命は等しく輝き、それらは佳いようにすでに在る。

日記を書き始めて明後日で3ヶ月になる。まだ3ヶ月か。その何倍もの時間を過ごしたように感じる。時間の感じ方というのは結局のところ、どのくらい今ここを感じていたかということなのだろうか。それとも、感じてきた時間をこうして日記を書くように、客観的に振り返ってきたかということなのだろうか。いずれにしても例えばこの3ヶ月間日記を書いた私と(旅に出ると度々途絶えてしまったが)、日記を書いていなかった私を比べると全く違う景色を見ることになっただろうと思う。これを更に長い時間に引き伸ばして考えるとなおさらだ。これを続けていくと、また今とは違った感覚を感じるのだろうか。そういう意味で、同じ場所に暮らし続けるというのは悪くない。毎年、同じように巡る季節の中で自分が見出すものの違いを感じることができるからだ。これまで「新しい景色を見たい」と住む場所や職場を変え続けてきた(動機はそれだけではないが)私は、世界をとてもわかりやすい部分だけ捉えていたのだと思う。日記を書くことを勧めてくれた友人にとても感謝している。食をはじめ、生活週間に関することを勧めることは親しい中でも(親しい中だからこそ相手の考えを尊重しようと思い)なかなか難しい。しかし、相手が何かに向かおうとする純粋な気持ち、そしてどうにかこうにか歩みを進めようとしていることを感じたら、私もそのとき自分が伝えられることを伝えたいと思う。そのためにも静かに日記を書き続け、自分が自分を深め続けることが大切なのだろう。2019.6.10 8:11 Den Haag

138.眠りはいつ終わるのか

昨日の日記を編集し終えたら今日の活動に入ろうと思っていたが、昨晩書いた日記の最後に、良い目覚めへの期待が書かれており、「そうだった」と思った。忘れていたくらいということは、期待したような目覚めではなかったということだ。今朝方、まだ空が暗く鳥の声も聞こえないうちに目が覚めた。枕元の棚に置いた腕時計に目をこらすが、これまで、おそらく早朝に目覚めた際にそうであったように、短針の位置も長針の位置も読み取ることができない。身体に不快感はなく、「いま起きてもいい」というような感じがしたが、掛け布団の暖かさを感じているうちにまたまどろみに落ちてしまった。それから結局数時間寝たのだろうか、もしかするともっと短い時間だったのかもしれない。白み始める空を感じながら見た夢を久しぶりに覚えていたので、枕元のノートにキーワードとなる単語を書き留めた。夢の内容について書く前に、目覚めのタイミングについて考えると、トイレに行くために目覚めたなどというわけではなく「自然に目が覚めた」という感覚があればそのときに起きていいのではないかという気がしている。「いい」というのは、「必要な睡眠がとれている」という意味だ。よくよく考えると睡眠というのは興味深い活動である。起きている時間に例えば何か一つの作業に集中するということを何時間も続けるのは難しい。無意識に全てを任せるこの活動は、日中意識の中で行うどの活動とも全く違うものなのだと気づかされる。ではその活動をやめるというのは誰がどうやって決めているのか。それは結局無意識の世界の話であり「終わったときが終わり」というだけなのかもしれない。私は以前から睡眠の質(特に、寝つき、眠りの深さ、寝起き)が悪いことに悩まされていたことから睡眠に興味を持っていて、日本にいるときに睡眠についての講習を受け、睡眠健康指導士という資格まで取った。(今思えばそのときから、人がパフォーマンスを発揮するにはそもそも身体の状態を整えることが大切なのではと考えていた)そのときのテキストを持ってきているはずなので、目覚めについての記述を後で確認してみたい。

昨晩寝る直前に思ったのは、「寝る前に最後に口にするものは何がいいのか」ということだった。寝るというのは体内や脳が休息をとる時間であるものの、寝る前に口にしたものはたとえそれが飲み物であってもやはり吸収されていくだろう。吸収自体が起こらないのが望ましいのかもしれないが、眠りという活動において必要な栄養素などがあるとすると、寝る前に口にするものによって眠りの質も変わると言える。それも、睡眠という活動について調べる中で検証していきたいと思う。

今朝の目覚めから睡眠の質の話に広がったが、最後に今日見た夢のことを書き留めておく。今朝見た夢の舞台も学校のような場所だった。周りの状況は詳しくは思い出せないが、近くにいた女性の一人が弁当のようなものを詰めて、「行ってくるね」と別の場所に向かった。それを見た私は毎日その場所に用意されていたおにぎりのようなものとオレンジの入ったチーズのようなものが昼食用だったことを知った。彼女は自分のためだけにそれらを詰めたのだろうか、それとも他の人の分も詰めていたのだろうか。「公費のようなもので買っているのだから、だったら私も食べていいはずだ」と思った私は同じように輪切りにされた丸いチーズを「欲張っているかな」と思いながら容器に詰めていった。その弁当のようなものを持ち、私も別の場所に向かう途中で通りかかった横断歩道の向こうに、小学校の友人のKちゃんの妹が立っているのが見えた。彼女も私のことを知っているので声をかけようとするが名前が思い出せない。そうすると別の場所から「Mちゃん!」と彼女を呼ぶ声が聞こえ、そうそう、そんな名前だったと思った。弁当のようなものを持って着いたのは運動場のような場所で、そこではすでに次の体育の授業が始まろうとしていた。

もっと長い夢を見ていたが、覚えているのはそんなところだ。これまで、まだ数は少ないが書き留めてきた夢を思い返すと「運動場に出ると体育の授業のようなものが既に始まろうとしている」というシチュエーションが何度か登場しているように思う。そして全体として私は、「何かに遅れて行く」ということが多い。自分自身に変化があると夢は変わっていくのだろうか。寝室の窓を開けたままにしていたせいか寝室とつながる書斎の温度も下がってきた。あたたかいお茶を淹れて、今日も書に取り組むことからこのあとの活動を始めたいと思う。2019.6.10 8:55 Den Haag

139. 玉ねぎを美味しく味わう夕餉

1時間ほど前に再び振り始めた雨が止んだようだ。書斎の窓には水滴が残っているが、下の階の、平らな屋根に溜まった水たまりの水面は静かに空を映している。向かいの家では久しぶりにお父さんと子どもがごはんを食べている。彼らはいつもこの時間に食事をしているのかもしれない。久しぶりなのは私がこの時間に書斎の机を使うことだろう。

今日は玉ねぎを新しい調理法で調理してみたが、それが思いの外美味しかった。料理というのも調理というのも大げさで、「玉ねぎを切ってフライパンで焼いただけ」なのだけれど…。一時前に買った小さな玉ねぎがなかなか減らないのでどうやって食べようかと考えたのは15時すぎに散歩行ったオーガニックスーパーから帰ってきた後だった。オーガニックスーパーでサツマイモを買おうか迷ったものの、まだ中くらいのサツマイモが残っていること、ここ2日サツマイモをふかして食べていて少し飽きていたこと、何より小さな玉ねぎがたくさん残っていることから今日はサツマイモを買わないことにした。小さな玉ねぎは普段、皮をむき、丸ごと弱火でコトコト煮てスープにして食べている。調味料は入れなくても玉ねぎの自然な味を感じられ、身体もあたたまるので良いのだが、その種類のせいか、皮を剥くのになかなか手間取る。ピンポン球より少し大きいくらいなので、スープには7個から10個くらいまとめて入れるが、それだけに全部を剥くのが一苦労なのだ。そして弱火で煮るのには時間もかかるので、例えば17時半すぎに「そろそろお腹が空いてきた」となっても、そこからスープを作る気にはならないのである。できるだけ簡単な調理方法で、願わくば皮を剥かなくていいレシピはないだろうかと、「小さい玉ねぎ 調理」と検索すると、クックパッドのレシピ一覧が最上位に表示され、その中に「お塩とオリーブオイルで♪グリルで焼いただけ!超簡単…」という説明のレシピがある。使う調味料も塩とオリーブオイルで、まさに私が求めていたものかもしれない!とレシピを開くと期待通り、簡単でかつ美味しそうな玉ねぎのグリル焼きの方法が書いてある。玉ねぎを皮がついたまま半分に切り、グリルに乗せ、塩とオリーブオイルをかけて中火で2分、弱火で6分から8分焼くだけと書いてある。どうやら小さな玉ねぎは「ペコロス」という名前らしい。可愛らしい名前と、皮を剥かないでいい簡単な調理法を見つけたからか、小さな玉ねぎがとても愛らしく思えてきた。「簡単!」ということで満足し、早速玉ねぎを半分に切ってフライパンに乗せ蓋をして中火から強火の間くらいで焼き始めた。4,5分ほど経ってからか、「オリーブオイルと塩はいつかけるのだろう」とレシピを見直すと最初にかけるということだったので、急いで蓋を開け、岩塩をふりかけ、今日買ったばかりのアマニ油を回し入れると、ジュジュジュと音がしたので急いで蓋を閉めた。

先日、ヘンプオイルは酸化しやすく熱に弱いという注意を読んだ気がして、このときはアマニ油にしてみたのだが、どうやらアマニ油も同じく加熱すると酸化してしまうようだ。加熱するのであればオメガ9を含むオリーブオイルが適しているということだが、総量として1日どのくらいが適量なのか注意が必要だろう。食の改善に取り組む友人の日記でオメガ3のことやオメガ6のことなどが詳しく触れられることがあり、「そんなに細かいことまで調べているのか!」と驚いていたが、良い状態を目指そうとするとその成分や量が重要になるのだと改めて実感した。「良い」と思ってやることが裏目に出ては元も子もない。しかし、そもそも私は普段の食事で(ここのところは)油自体を摂取していないので、オメガ6もバランス良く摂る必要があるのだと理解する。それにしても東京で会社勤めをしていた2年の間は朝ごはんが歩きながら食べるメロンパンと飲むヨーグルト、昼と夜はほぼ外食だったが(入社してから3ヶ月間は毎晩のように歓迎会や飲み会に参加し、その間5kg太った)よくもまあ、あの状態で仕事をしていたものだ。昼に肉や炭水化物を中心としたもりもりのランチを食べ、その後2時間はエネルギーは消化に使われていただろう。そのため、パフォーマンスが上がらず毎日何時間も残業をし、すっかりお腹がすき、22時を過ぎた頃にまたガッツリ夕食を食べる。そして消化器官を休ませないまま翌朝を迎え、朝はパフォーマンスが上がらない…。給料泥棒だったと謝りたいくらいだし、何よりクライアントさんに良いサービスを提供できていなかったことが申し訳ない。残業になるのは仕事が多いのではなく(明らかにキャパを超えていた時期もあったが)「就業時間に仕事をしていないからだ」とかつての自分に声を大にして言いたい。と言っても、過ぎた時間は戻らないので、せめて今からの毎日を、反省を生かして悔いのないより良いものにしていきたい。食に関して色々なことを教えてくれる友人とその日記に改めて、つくづく感謝している。

気づけば玉ねぎの調理についてと同じくらい、油についてと食への反省をしたためていたが、とにかく先ほどの容量で(油を入れてからは4分ほど弱火で加熱をした)調理した玉ねぎは、驚くほど美味しかった。油によって玉ねぎの水分が閉じ込められたのだろうか。加熱しただけなのに瑞々しく、甘く、買った日に薄切りにして水にさらして食べたときの辛さが嘘のようだった。レタスに豆腐半丁、ペコロス4つで、満腹までいかないまでも満足の夕食だった。
2019.6.10 20:06 Den Haag