506. 賑やかで静かな大晦日、体験と記憶

18時を過ぎる前から、花火の音がどんどん激しくなっている。
大きくは今日に始まったことではない。クリスマスを過ぎてから、だんだんと、日に何回か花火の音を聞くようになった。

普段は静かなオランダの街が、この時期は一般の人が打ち上げる花火で賑やかになる。
それを知ったのは、昨年、オランダで年末を迎えたときだった。
今年の年始を迎えたときと言ったほうがいいだろうか。
1月1日、日付が変わってすぐにあちこちで花火が上がった。家の前の道で上がる花火を動画で撮ることができるくらい近くで打ち上がる花火に、そのとき滞在していた日本人の友人と興奮し、盛り上がったことを覚えている。彼女は今日はどこでどんな大晦日と新年を迎えているだろう。

一昨年住んでいたドイツでも新年だけは一般の人が花火を上げていいことになっているということで、四方八方で「打ち上げ花火」と言っていいほど大きな花火が上がったことを覚えている。だから、「オランダでもそうかもしれない」と思っていたが、オランダでは、思いの外近くで花火が打ちあがって驚いた。しかし昨年はこの時間からこんなに花火の音が聞こえていただろうか。

 

体験と記憶というのは本当に不思議なものだ。
その瞬間は確かに体験の中にいる。強く、体験そのものになっている。
しかし時間が経つと、霧の向こうに遠ざかっていくようで、もうそのときの感覚に触れることはできない。嬉しいことも悲しいことも辛いことも。

それが体験しているということなのだろうか。

去年の今頃、自分がどんな体験の中にいたのか、もう、薄ぼんやりとした記憶としてしか味わうことはできない。

それは、記憶を辿るよりも、今を味わいなさいということなのだろうか。

美しいときは、結局のところその瞬間にしか味わうことができない。
そして、それが美しいときだったということは後になって分かる。

今ここ、オランダの、海の近くの、いつもは静かな街の一角の、家のリビングには、周囲で打ち上げられる花火の音が響き渡っている。斜め前には同じようにパソコンに向かうパートナーがいる。
この家のオーナーであるヤンさんのお手製の大きな机の上には、クリスマスに我が家にやってきた花束が、少しだけ姿を変え、あたかも新年用の花束かのような顔をしてそこにある。正面の、暖炉の跡がある柱の上には、ロンドンのボタニカルガーデンで買った2020年のカレンダーが飾ってある。その横の壁にはここ1週間前に行なったインタビューを記事にするために聞き起こしをし構成をした原稿が貼られ、その脇にはインタビューの案内文を書くために考え事をしたときのポストイットが貼られている。さらにその近くには、今年の夏、日本からやってきた人が携えてきてくれた花束をドライフラワーにしたものと、ドイツにいるときに白バラと黄色いバラをドライフラワーにしたもの、さらには今日まで花瓶に入っていた、赤と白のチューリップが下がっている。チューリップがドライフラワーになるかは分からないが、花瓶の中で花が落ちていくのとは違った過程を楽しみたいと思ったために引き上げて吊るしたものだ。今はまだ花瓶の中に入っている他のグリーンや小さな植物たちも、明日の来客を終えたらドライフラワーにしようかと思っている。

ここ数年の中で一番、静かで心おだやかな大晦日。

静けさとは、空間的・物理的なものではないということを実感する大晦日。

今年1年間のことを振り返ろうと思っていたが、それ以上に、今を感じておきたかったようだ。
日付が変わるまであと数時間、お茶を入れて、また振り返りをしていこうと思う。2019.12.31 Tue 21:31 Den Haag

507. ねずみの夢とオリボーレン

2019年を振り返る前に書き留めておきたいことがある。

それは昨日、日が傾き始めた頃だったと思う。

キッチンの端に置いてあるパンの袋が目に入った。パンにチーズとハムを乗せて食べることが日課となっているパートナーが数日前に購入していたものだ。普段ならクラッカーなどを入れている扉のついた入れ物の中に入れるところを、パンが大きかったためか、IHのコンロの横の空いたスペースに置いてあったものだった。

見ると、袋の中に随分とパンくずのようなものが散っている。そんなにボロボロしたパンだっただろうかと袋を持ち上げてみると、袋にいくつかの穴が空いていた。オランダのスーパーで売られている商品は日本ほど厳密に管理がされていないようで箱が凹んでいたり、袋が破けていたりということは珍しいことではない。それにしても、である。

「このパン、こんなに穴が空いてたっけ?」

とパートナーに袋を見せると、「ネズミにかじられてる!」と彼が声を上げた。

よく見ると、パンの中心部にも大きな穴のような、くぼみのようなものができている。

オランダの家にはよくネズミが出ると聞く。実際我が家も、書斎の机の上にあるベッドで寝ると天井裏を走るネズミの足音のようなものが聞こえてくることがあるし、数ヶ月前も台所の、蕎麦を入れていた引き出しにネズミが入ったようで蕎麦の袋と中身がかじられていた。退治をするにはどうしたらいいのだろうといつも行くオーガニックスーパーのスタッフに聞いてみたところ「オランダの家にはネズミがたくさんいるでしょう?僕も好きじゃないんだよ」ということだった。(が、ネズミ獲りのようなものはそこには売ってはおらず、ガーデニングショップなどにあるかもしれないという曖昧な答えが帰ってきて、つまりは、ネズミはいるものの積極的にネズミ退治はしていないのだということを想像した。)

ここのところ姿を見かけないと思っていたが…。

パンを置いていたのは僅か一晩。目ざとくもそのときにパンを見つけ、たらふく食べていったのだろう。

 

衛生面などを考えるとネズミはいないに越したことがないが、食べられたパンの、丸くくぼんだ穴のような部分を見て「ネズミはさぞかし楽しかっただろう」と微笑ましい気持ちにもなった。そして、小さ頃歌っていた歌を思い出した。

 

〜もしもぼくがコックさんだったなら、ほっきょくのこおりのなかにさとうとミルクを入れて、とびきりじょうとうのアイスクリーム、つくりたい〜

この歌や、「ぐりとぐら」の絵本を読んで「大きなお菓子」のようなものに憧れた子どもは多いのではないだろうかと思うが、それは私が食い意地が張っているから思うことなのだろうか…。

北極の氷の中にできたアイスクリームのように、自分の体よりも大きな、ふわふわのパンの中にダイブしてパンを食べているネズミを想像すると「うほほー!」というネズミの声が聞こえてくるようだ。

そんなネズミの姿を昨日から想像し、幸せな気持ちになっていた。

そして今日、近くのスーパーに買い物に行くと、途中、オリボーレンというオランダの伝統的なお菓子を売っている大きな屋台のようなところにたくさんの人が並んでいる様子が見えた。12月になってから、ラウンドになっている交差点の中央のスペースに据え付けられている店だが、これまで(クリスマスでさえも)そんなにも人が並んでいることは見たことがなかった。それが、屋台の前に3つの列ができ、全部で50人はくだらないであろう人たちが並んでいる。オリボーレンはクリスマスの食べ物だと思っていたが、どうやら大晦日の恒例の食べ物だったようだ。日本で言う梅ヶ枝餅のようなものだろうか。(私の中ではお正月に食べる甘いものといえば、お参りに行く神社で買う梅ヶ枝餅なのだが、地域が違うとまたそれも違うのかもしれない。)せっかくだからオランダ式の大晦日を楽しもうと列に並ぶと、お店の人が注文に応じて紙袋の中にポンポンとオリボーレンを入れているのが見える。一人10個はくだらない。家族の分を買っていくにしても多い。一体オランダの人はこれを一人何個食べているのだろうか。

一人二個にしようか、三個にしようか。いや、夜までまだ時間はあるから四個買っておいた方がいいかもしれない。などということを考え、結局自分たちの番になって、一人四個、合わせて八個のオリボーレンを注文した。ポンポンとオリボーレンが入れられ、粉砂糖をふりかけられた袋を受け取った瞬間、オリボーレンの重さが幸せの感覚になった。「ネズミもこんな気持ちだったのかもしれない」と思った。

日常的にこんなに食べていたらあっという間に私もオリボーレンのようになってしまうだろう。
こんなにたくさんオリボーレンを食べるのは、今日が過ぎたら、また次の大晦日までないかもしれない。

オランダに来て1年と5ヶ月。オリボーレンの袋を抱えてにこにこと足早に屋台を去るオランダ人たちを見ながら、オランダらしい楽しみや感覚がやっと味わえた気がした。2019.12.31 Tue 22:26 Den Haag

508. 花火の音に包まれて、感謝とともに

オリボーレンの話を書いている間も、どんどんと外で上がる花火の音が増えている。上の階に住む住人も、数時間前に訪れた友人らしき人と、何やら楽しそうに外に出て行った。50歳を過ぎているであろう男性二人も、打ち上げ花火を上げて楽しむのだろうか。ある意味こういうことを堂々とできることがオランダ人の精神の健全さにつながっているのかもしれない。もしくは、除夜の鐘をつくことにも近い、何か「区切り」のようなものをつける儀式なのかもしれない。

24時を過ぎると、今よりももっと、驚くほど賑やかに、近くでも花火が上がり始めるだろう。

2019年、どんな年だったろうと先ほど手帳を見返していた。

今年から「ほぼ日手帳」という手帳を使っているが、月の初めに自由に書き込みができるスペースがあることから、毎月、一ヶ月の振り返りと、新しい月の目標やテーマのようなものを書いていたため、それを改めて見直してみた。一ヶ月ごとの振り返りのときには、月の始まりに書いた目標の中で実現しているものにはチェックを入れていた。その時点ではできていないことも多くあったが、今になってみると「あのとき思っていたことが実現してきている」という感覚がある。

欧州に来てから、ドイツで過ごした1年半というのは私にとっては苦しい時間だった。やっていることは今と大きくは変わらないが、どこか地に足がついていないというか、いく先が定まらないというか、人生の舵取りをしているという感覚を持つことができていなかった。今も無理やりどこかに向かおうとするよりも流れに身を任せていこうという感覚はあるが、それは、戻る場所や自分にとって大切なものがちゃんとわかっているからこそできることだと感じる。

ふわふわとしていた感覚から、世界とそこにある日々と自分が織り重なっていくような感覚を感じるようになったきっかけは日記を書くことになったことだ。日記を書くことを勧めてくれた友人、そして友人の開いたオンラインのゼミナールを通じて学んだことやそこでの新たな出会いから学んでいることは私にとってとても貴重な感覚や体験を生み出している。今私がこうして騒々しい花火の音の中でも穏やかな気持ちで一年を終えようとすることができているのは友人が後押しをしてくれたおかげと言っても過言ではないだろう。

そして、日本からオランダにやってきてくれたパートナーにも、感謝の念が尽きない。

同じように、今年、そしてこれまで時間を共にした人たちを通して、何か宇宙の啓示というか学びを受け取っているという感覚がある。それをまた誰かに渡していくこと、世界に伝えていくことを果たしたいというのが今の私の願いであり希望だ。私なりにできる形で何らかの表現をしていくことが、感謝を表現することであり、それが私のやっていきたいことだ。

言葉と、言葉にならないものの声を、心を澄まして聴くこと。

星屑のように降ってきた音、心の中に湧き上がる音を言葉にし、そっと置いていくこと。

それが誰のために、どんな風に役に立つかは分からないが、来年も静かにそんなことをしていけたらと思う。今、あたたかくてふんわりとした感謝の空気に包まれている。2019.12.31 Tue 22:48 Den Haag