504. 言葉で絵を描く

昨日と今日の違いに気づくとすると、それは何から気づくのだろう。

書斎の窓から中庭を眺めながらふとそんな言葉が思い浮かんだ。

ガーデンハウスの屋根の上を、鳩がとことこと歩き、斜め前の家の庭には白髪の老女が出てきた。

自分自身に何か変化があるとすると、それによって世界の見え方が変わり、それによって、昨日の自分と今日の自分が違うことに気づくのだろうか。

それはある意味、喜ばしいことでもあるけれど、一方で、記憶や相対の中で生き続けていることに違いはないとも言える。昨日との違いを求めない自分に気づいたときこそが、大きなシフトを迎えたときなのだろうか。きっとそのときにはもう、そんなことさえ考えなくなっているのだろう。

昨晩は夜中のセッションを終え、意識が覚醒していたので12月のことをぼんやりと振り返っていた。少しずつ新しい変化が起きているような、ここ数ヶ月、いや、もっと長い間取り組んできたことがおぼろげに形になっていく兆しを感じるような1ヶ月だった。

私には、静けさや平穏が必要だ。だからこれからも、たくさんの方とご一緒することはできないだろう。それでも人が、自分の心や言葉に出会う、生命の輝きのようなものを感じる瞬間が好きだから、これからも粛々と、為すことに取り組んでいくことになるだろう。「楚々」という言葉が思い浮かんだが、調べてみると、清く美しく見える様のことを示すが、多くは若い女性を対象に使うという。まだ若い女性と言っていいだろうか。日本語は細かいニュアンスの違いを表現することができるが、それゆえに適切な言葉を見つけるのが難しい。

ずっと、絵を描きたいと思ってきた。絵でなくてもいい、何か創作活動をしたいと思ってきた。しかし、なかなか自分に合ったもの、内から湧き出る流れと一体になってそれを多重的に表現できるものが見つからなかった。

昨日、街の中心部までの散歩の途中で、私にとっては「言葉」は「絵」のようなものだということがふと浮かんできた。一般的には言語と非言語のものというのは別のものとして扱われているし、確かにそういう面もあるのだと思う。しかし私にとっては言葉は絵の具のようなもので、それによって、世界が描き出されていくのだ。

もっと、とことん言葉の世界を追求してもいいのかもしれない。「言葉の世界」と思われているものを超越した言葉の世界と出会うことができるかもしれない。言葉と身体、そのつながりを取り戻し深めていくことがそれにつながるヒントになるのではという考えが浮かんでくる。

何かに呼ばれた気がして、顔を上げた。まだらに広がる雲の間から差し込む、やわらかな光の筋が見えた。2019.12.29 Sun 11:32 Den Haag