502. オーナーシップが育まれるオランダ社会に考えを巡らせて

なんだかとても久しぶりに日記に向かう気がする。

と、ここのところ、数日おきに思っている。

それは実際に、以前は(と言っても2週間も前ではないくらいなのだが)朝夕と日記に向き合っていたものが、このところ朝もしくは夕方だけになっていることが多いことにも関係するが、それ以上に1日がとても濃密に感じるからだろう。

と、そんなことを書いたのがもう昨日のことになってしまった。

そうこうしているうちにもう、今年最後の週末がやってきた。

先ほど、窓を開け放ち掃除機をかけているときに「暮らしのオーナーシップ」という言葉が浮かんできた。それは厳密に言うと、「この家はなんだか、掃除をしている時間が楽しいし、ちゃんと手入れをしたくなるなあ」という考えが浮かんだ直後だ。ああ、私はここで、ただ場所を借りて過ごしているのではなく、暮らしをつくっているのであって、暮らしをつくるというのは暮らす場所を整えること、手入れをすることも含まれているのだと思った。

「オーナーシップ」という言葉が浮かんできたのは、一昨日、オランダでの3年間教育武者修行を終えて日本に帰っていった社会科教員の友人へのインタビューの中で「オーナーシップ」という言葉が出てきたからだろう。(このインタビューは本当に興味深いお話を聞くことができたので、ぜひ、しっかりとした記事にしてシェアをしたいと思っている。)

思い返せばこれまで私は「オーナーシップ」は「持たされるもの」だと思っていたかもしれない。その時点できっとオーナーシップではないのだが、日本ではリーダーシップなども、ある種スキルのように外からの働きかけやインプットによって身につけるものという認識を持たれているようにも思う。

インタビューを通じてオーナーシップは内から湧き上がってくるものであり、オーナーシップがあると楽しさもそこに生まれるのだということを理解したが、それが体験となってこの場に立ち現れて来たのだ。

この家のオーナーであり、1階に住んでいるヤンさんはよく庭の手入れをしている。家の中の不具合を直すことなども大抵のことは自分でやってしまう。それはある意味「オーナー」なので当たり前と言えば当たり前なのだが、ヤンさんはとにかく、当たり前に、楽しんでやっているという感じなのだ。「オーナー」と「オーナーシップ」は同じではなく、「オーナーシップ」が「自分でやること」かというと必ずしもそうではないのだと思う。「自分の一部としてそれを為す」という感覚だろうか。それとも、「一体になる」という感覚だろうか。もしくは「それの一部である」という感覚さえもあるのかもしれない。どちらが大きいか、主体かではない、もっと別の要素が「オーナーシップ」の決め手なのかもしれない。

そう言えば、インタビューで聞いた話を元に考えたことでもう一つ面白いと感じることがあった。オランダでは小さい頃から、まだ「教育」と言われる前の、人と人としての関わりの部分からオーナーシップを育てる姿勢があるという話が出て来たのだが、一方でこれまで「オランダの大学院生はやる気がない」という話を聞いたことがあった。工学系の大学院に通った二人の日本人が別々の機会に、同じようなことを言っていたのだ。

オーナーシップを育てる教育と、大学院生のやる気のなさ。一見相反するように見えるものだったが、昨日、友人へのインタビューを聞き直しているときにふとつながったものがあった。それは「楽しんでいる」「自然」「持続可能」というキーワードだ。歯を食いしばって頑張るのではなく、楽しんでやる。仕事や学業など、一つのことだけに力を入れるのではなく、家族との時間や遊びの時間、全体を楽しむ。そうするから、長期的に見て大切なことに取り組み続けられるのだという。

もしかすると日本もしくは他国からオランダに来ている大学院生は「この期間頑張って成果を出そう」「今後に有利なようにしっかりと研究しよう」という気持ちが強いのではないだろうか。一方でオランダで育ち、教育を受けてきた人たちにとっては、学びとは自分がやりたくてやるもので、それは一時的な評価や成果のためではないずっと続くものなので「大学院の期間だけがむしゃらに頑張る」ということをしないのかもしれない。

それにしても改めて、社会や文化、コミュニティを様々な視点から眺めてみるのは面白い。今日本に伝わっている「オランダってこういう国だよね」というのはオランダのほんの一部に過ぎないだろうし、私が見ているオランダも同様だろう。大事なのは、事実がどうかというよりも、「どんな風に見えるのか」「なぜそのように見えるのか」ということかもしれない。それによって、人は、見る対象というよりも自分を知ることができる。しかし対象を見つめるときに「自分」というフィルターがかかっていることに気づかないことも多い。

以前はそのフィルターは、「外せるほどに良い」と思っていたが、最近はそうでもないという気もしてきている。今見える世界をそのまま味わえば味わうほどに見える世界は鮮やかになり、そして味わえばいつかはその世界の「キワ」が見えてきて、あるときふと、自分がかけていたフィルターに気づくことになる。鮮やかな世界を味わっているほどのそのときの驚きは大きく、世界の中で一気に自己が縮むような、でもそんな自己が可愛らしく愛おしく、そして他者にも深い愛を感じるような、そんな体験に出会うことができるだろう。それは「体験」というには少し長い時間の中で起こることかもしれない。

あらためて、言葉を通して人が見ている世界を一緒に味わうというのは面白く奥深い。来年は、「こんな世界の見え方もあるのだ」ということを、様々な人へのインタビューなどを通じて届けていけたらと思っている。

一つの話から色々なことが広がり、どう伝えようかと楽しみが広がっている。2019.12.28 Sat 11:14 Den Haag

503. 好きだった物語 『エルマーとりゅう』からの気づき

数日前の日記を、ウェブサイトにアップするために読み返して驚いた。それは「仲間はずれにされる夢」について書き留めたものだった。

昨晩、パートナーと、「小さい頃好きだった物語」の話をしていた。彼が日本から持って来た書籍の中に河合隼雄さんの書いた『中空構造日本の深層』というものがあり、その中に、「好きな物語と自分の内面がつながっている」というような話が出て来たというところから、それぞれが小さな頃に好きだった絵本などのことに話が及んだのだったと思う。

私が思い出した好きだった本は『エルマーとりゅう』だ。「好きだった」というと語弊がある。「よく読んでいた記憶がある」というのが正しいだろう。よく読んでいた記憶はあるが、どんな話だったのかは覚えていなかった。調べてみると、『エルマーとりゅう』は、「ある島に捕らえられ、首を綱で縛られて川を渡るのに使われている竜がいるという話を聞いたエルマーが、竜を助けに行き、首にかけられている綱を切って、竜の背中に乗り、島から逃げることに成功する」という話だということが分かった。

思い返せば、これは私がこれまで世界に感じてきたことそのものだ。翼を持ち、本当は飛べるはずの竜が綱で繋がれている。その綱を切って、それまで閉じ込められていた世界から出る。私が後押ししたいと思っている「本来持っている力を発揮する」というのは、そういうことなのだとも言える。(今はそこに「繋がれていると思っていたはずの竜は実はもう、自分で綱を切ることができるようになっているがそれに気づいていない」というストーリーが私の中で加わっていることにこうして書きながら気づいた。)

生まれる前から持っていたものなのか、好きな本を通じて身につけた考え方なのか、そのどちらもなような気もするが、「それぞれの人はすでに素晴らしい存在そのものである」「それを発揮できていない物理的・システム的・関係性的な環境(外部環境)もしくは心理状況(内的環境)がある」というのが、私が信じてきたことだった。

私の物語には「仲間」はあまり出てこない。『エルマーとりゅう』の中には、捕らえられている竜がいることをエルマーに教えた年老いた野良猫は出てくるが(野良猫は、竜を自由にすると約束したが、もう自分ではそれが叶えられなくなりエルマーに竜の話をしたということだが、それはエルマーそのものであり、「かつての自分(もしくは未来の自分)」という見方もできるように思う。)仲間というよりは、師のような存在に近い。

他に覚えている絵本や童話なども、「仲間と何かをする」というテーマのものはないということに気づき、そして、自分は物心ついた頃から「疎外感」のようなものを感じていたのだということに気づいた。それは、今となっては珍しくない、漢字一文字の名前が、「子」がつく名前の多い同年代の中では珍しく、さらに、字面から男の子によく間違えられていたという体験からも来ているのだろう。「仲間はずれになる」のではなく、そもそも仲間にすら入れないというそんな感覚を、小さな頃から勝手に覚えてきたように思う。

冒頭の「驚き」に戻ると、そんな、「そもそも仲間にすら入れない」という、自分、そしてそれが自分だと開き直ってきた自分が「仲間はずれになる夢」を気にしているということに関する意外さを感じたということだった。

それこそ、私は綱を切ることができないと思っている竜なのかもしれない。

今も特段、特にベタベタとした関係の仲間はいらないと思っているが、かつての、幼い頃の自分が感じた「仲間」(これは「同種」という意味に近いかもしれない)とは違う、更新された意識における「仲間」(これは「同志」もしくは、同じでなくとも「想いに重なりがある人」くらいな感じだろうか)と共に、お互いに自立し、それぞれが深い探求領域を持ちながらも、一緒に取り組むからこそ面白くなるもの・深めることができるものに取り組んでいきたいという想いは持っているのだろう。「共に何かをする」ということを、今までとは違う構造で捉えるようになった自分が現れてきているのだろうか。

小さな子供が読んでいる物語の中には、思った以上に、深い構造になっているものもあり、それを大人になった今改めて読み直してみるというのはかつての自分とその後の自分に出会えるような新鮮な体験になるように思う。小さな頃好きだった本や物語は何か。色々な人に聞いてみたい。2019.12.28 Sat 11:58 Den Haag