492. 人の視線を集める女性に嫉妬を感じる夢

寝室からベランダの外を見ると、西の空、深い青の中に半分に欠けた月が輝いていた。この間満月だったのにもう半分か。月の移ろいは、時間が過ぎ、季節が巡っていることを教えてくれる。確か、冬至はもうすぐのはずだ。それを越えれば朝、明るくなる時間も少しずつ早くなっていくだろう。

カモメの声が聞こえる。真冬にはカモメがいないと思っていた自分に気づく。

今朝も長い夢を見ていた。7時を告げるアラームが鳴る前、すでに自分が夢の中にいることには気づいているのだが、明確にこちらの世界に意識が向くわけではない。睡眠時間は十分に取っているように思うが、それでも放っておいたらいつまででも寝ていそうな、そんな、だらだらと続く夢の中をいつも彷徨っている。

夢の終わりの2つのシーンだけを覚えている。一つ目は、体育館のような大きなホールにいるシーン。体育の授業のようだが、同じ授業を受けるメンバーには小学校の同級生も中高の同級生も混ざっていた。同級生だと分かるが、見かけは大人である。そこで私は、先生らしき人の言動から、このあと二人組になって社交ダンスのようなものを踊るということを知った。しかし、周囲の人たちはそれを分かっていながらもペアを決めていく気配がない。私はメンバーの中にいる小学校のときに好きだった男性と組みたいと思っていたが、彼も相手を決めようとする様子はなく、周囲の友達と冗談を言い合っており、その様子に残念な気持ちがした。そうしているうちに、先生が一人の女性とホールの真ん中に出て踊り出した。広い空間の中で二人が距離をとって踊る様子は、社交ダンスというよりも、ジャズダンスか、コンテンポラリーダンスのようでもあった。と、先生ではない方の女性が新体操の道具であるリボンを取り出し、踊り出した。気づけば着ていた服も、全身タイツのようなピタッとした新体操のユニフォームのようなものに変わっている。それまでは二人の踊りはあまり注目されていなかったが、リボンを使った華やかな踊りに、周囲のメンバーたちも観入り始めた。そんな様子を見て、隣にいた女性が「あの子はあんな風に一人だけ目立って」というような、嫉妬が混じった言葉を口にした。その瞬間にそれは自分の心の声だと思った。

そこから場面は変わり、先ほどホールにいたメンバーのうち女性だけがいる空間にいた。そこに、身長が高く細身で、顔の輪郭も鋭い女性がやってくる。その女性を見て、数年前に女性誌の人気モデルだった女性だということが分かる。他の女性もそれに気づいたようで、細い女性に注目が集まる。そして何かの撮影をするということで、その場にいる人の中から撮影に参加する人が突如募られた。「興味はあるが、自分から手を挙げるのはな…」と思っていたところ、すぐに二人の女性が名乗りを上げ、もう一人、その場にいたやはりモデルのようなスタイルのいい女性が加わった。二人のモデルの女性と、二人の何となく知っている女性がカメラを向けられる様子を見て、やはり嫉妬のような気持ちが湧いてきたところで目が覚めた。

私は今、日本と物理的に距離が離れたところに身を置き、美しさや社会的な知名度のようなものを競う慣習の中に意識を置くことが馬鹿馬鹿しいとさえ思っているが、今日の夢から、自分は多少なりともそんなことを気にしているのかもしれないと感じた。相対的な評価を手にいれることは一時的な満足が得られるものの、それは消費的な感覚で長く続くものではないことを知っている。今あるとすれば自己表現の欲求のようなものだろうか。「いいね」などではない、でも、他者の人生に、何か少なからず影響を与えるような、いや、価値観を大きく揺さぶるような、そんなことをすることを願っている自分もいる。それを、パフォーマンスとしてではなく、内なる欲求にしたがって表現していたら結果としてそうなっていたという形で実現したいという、多少頑固な考え方もある。

久しぶりに覚えている夢は、色々なことを教えてくれているのだろう。2019.12.18 Wed 8:49 Den Haag

493. ここのところの食を振り返って

時刻はまだ19時半を回ったところだが、外の暗さ、家の中の静けさは、22時近くのそれを思わせる。そんな中でも、私の胃は少しばかり重たく、ごろりと身体の中心に横たわっている。

この一週間、食生活は大きく変化した。それはパートナーが日本からやってきたことにも影響しているのだが、それを理由にするのはいささか言い訳のような気もしている。

朝起きてから、昼ごろまでの食というか飲み物についてはこれまでとはそう変わってはいない。朝起きて、ココナッツオイルでオイルプリングをし、その間にお湯を沸かし、白湯を飲む。二杯目はクコの実を入れて飲む。その後は小麦若葉にヘンプオイルを垂らしたドリンクを飲み、その後、カカオパウダーとヘンプパウダーに蜂蜜を加えお湯を加えたドリンクを飲む。そして午前中の打ち合わせもしくはセッションが終わったところでバナナを焼き、ヘンプシードをかけて食べる。その間、これまでよりも多く、柿の葉茶やほうじ茶など、何らかのお茶も飲んでいるかもしれない。

今日はその後、昨日作ったカレーを食べた。カレーと言っても、キーマカレーのようなもので、ひき肉と玉ねぎとトマトとナスに様々なスパイスを加え煮込んだものを、オーガニックスーパーで買った薄いピザ生地のようなものに載せて食べるのだが、これまで日中口にしていたものに比べると明らかに量も多く、消化にエネルギーも使うため、食べるとすぐに眠気がやってきた。そんなことがここ数日続いている。それに加えて、食後には口が甘いものも欲するのだが、これは本当に身体が必要としているものではなく、なんとなく「シメ」のような形で気分として欲しているだけだという自覚もある。先日までは「身体が甘いものやエネルギーを必要としている時期なのだろう」ということを理由に食べることを許容していたのだが、そろそろその必要もないということも分かっている。

数日前から軽く頭痛のようなものを感じるが、これは糖分もしくはそれに類するものの摂りすぎによって起こっているような予感もある。生活のリズムそのものもそうだが、他者がいることを言い訳にするのではなく、自分自身にとって良いリズム、良い食を保っていきたい。これはある意味、鍛錬というか、試されているというか、ここが踏ん張り時なのだろう。ここで以前の食生活や、日本にいるのと変わらない暮らしぶりをしてしまえば、せっかく開かれた感覚がまた閉じていってしまうように思う。それで閉じてしまうくらいならその程度のものだとも言えるが、今はまだ、どんな環境でも感性や感覚を発揮できるようになるそのプロセスにいるため、自分自身に影響を与える外的な要因と、影響を受ける精神そのものをいかにコントロールするかというのが肝になってくるだろう。パートナーと言えど、あくまで他人であって、お互いにとって適切な生活のリズムや食というのは違う。相手にとって必要なものを尊重しつつ、ともに楽しむ時間をいかに持っていくかというのはこの先ずっと大切なテーマになっていくのだと思う。2019.12.18 Wed 19:50 Den Haag

494. 個であること、共であること -パートナーシップのこと-

そう言えば今日は一つ新鮮な体験があった。パートナーとともに、日本にいる友人と打ち合わせをしたのだ。友人と言っても、私は直接会ったのは数年前。その後は、向こうが共通の友人たちと飲んでいるときに電話をしてくることがたまにあった程度だったが、共通の友人のうち2人がこの秋、それぞれオランダを訪れてくれたこともあり、その流れでこれから取り組もうとしていることに重なる部分があり、話をしようという流れになった。

普段私は、打ち合わせで先方が複数人ということはあっても、こちらが複数人ということはない。それもあって当初、パートナーとは別々の部屋からそれぞれ打ち合わせに入り、三者通話のような形がいいのではと思っていたが、電波が安定しなかったことから、結局、こちらは横並びで話すことになった。視覚情報があるとそちらに気がいってしまうので、横並びではあるが、音声だけが聞こえている状態であった。

私が別々の部屋から入った方がいいと思ったのは、自分が会話に集中できるということに加えて、「ひとまとまり」という単位になりたくなかったのだということになって後になって気づいた。パートナーとはこれまでたくさん話をしていて共通の想いもあるとは言え、それぞれに大切にしたいものがあるし、その細かい内訳や、その根底にあるものはやはりそれぞれの生きてきた人生が土台になっている。それが、例えば視覚的に同じ画面の中に映っていると、あたかも考えていることが全く同じかのように捉えられるのではないかという危惧があったのだと思う。しかしそれは杞憂に終わった。友人は私のこともよく知っているためか、出会った人一人一人と向き合うというスタンスを持っているためか、「私たち」と「それぞれ」があるということを理解し、それを尊重して話を交わしてくれたように思う。

パートナーシップというのは、そこに楽しみもあるが、煩わしさのようなものもある。煩わしさというと語弊があるかもしれない。お互いの領分を尊重する必要性、もしくは、重ならない領域があることに対して理解を持つ必要性と言った方がいいだろうか。ちょうど10年前(もうそんなに経ったのかと、今驚いているが)、前の夫と結婚して間もない頃、何かの拍子に夫に「だって夫婦でしょ」と言われたことがあった。そのときの私はその意味がてんでピンと来なかった。今となってはそのとき言いたかったのは、その言葉とは違うものだったのだということも分かるのだが、当時は法律上籍を入れたがゆえに「夫婦だから」とひとまとめにされることに、相手が夫であっても私は違和感があった。(そのあたりは私の頑固さが出る部分でもあると思う。)そして今でも既婚女性が口にする、「夫に聞いてみます」という、主体を手放しているとも詭弁とも言える言葉にやはり違和感を覚えることがある。(それも、言葉尻というもので、実際のその人の意識の全てだとは言えないとは思うのだが。)夫婦やパートナーは、集合体としてもみることができるが、やはり個の集まりなのではないかというのが今のところ持っている感覚だ。これはこれから変わるかもしれないし、そうではないかもしれない。しかし今の自分にとっては集合体としての見方をされることが強く、結婚をしているかそうでないかで社会的な見られ方が違う日本の社会というのは、仮に自分が結婚をしていたとしても居心地が悪いのだと思う。

パートナーが日本からやってきて、パートナーシップというものについて改めて考えるようになった。私自身、まだ日本的な慣習に囚われているところもあるのだと思う。最初の結婚をしてから10年、パートナーシップや「パートナー感」についてどんな変化があったのかということも今後検証をしていきたい。2019.12.18 Wed 20:25 Den Haag