490. 同じ景色を見ること、感覚を共有すること

低音で響く救急車の音が遠ざかる。中庭のガーデンハウスの屋根の上には首元と前足の先の白い黒猫が木の茂みの下に丸まり、飛んでくる鳩を見上げている。雲は、東側の輪郭に光を含みながら、ゆっくりと北東の方角に進んでいる。そんな景色を見ている私は、バランスボールの上に座り、窓から外を眺めている。

今日もよく寝た。昨晩は今後の拠点になりそうな場所の不動産情報をサーフィンし、あれこれと今後の暮らしや活動に考えを巡らせていた。せっかくならオランダらしくフローティングハウスのような場所がいいだろうか、いや、思いっきり静かな自然に囲まれた場所がいいだろうか。リモートワークやワーケーションを推奨している企業や、静かに過ごせる場所にセカンドハウスを持ちたい人とシェアするのもいいかもしれない。喜ぶ人の顔を思い浮かべると、楽しみも広がるように思う。しかしまずは自分自身が心から心地いいと思える場所をつくることが大事なのだろう。深い部分での感性の共感は実際の体験から生まれるだろう。どんなに言葉を尽くしても伝えきれないことも、空間と時間を共にすることで「ああ、こういうことね」と言葉が要らなくなることもある。

例えばこの中庭の景色はどうだろう。あの鳥の鳴き声はどうだろう。

もしかすると、大切なのは、「同じ景色を想像してもらうこと」ではなく、「同じ感覚を想像してもらうこと」なのかもしれない。自分自身にとって大切なことに触れることができたという体験は、どうやっても伝えきれない。生きてきた人生、経験してきたことが違うのだから。そんな中、同じくらいの「深さ」で相手も「自分にとって大切なもの」に触れることができたとき、それは「同じ景色を見た」ということに近いのかもしれない。

昨日は15時すぎに散歩がてら近くの商店街のカフェに向かった。一昨日も訪れたこのあたりで一番コーヒーが美味しいという店だ。(私はコーヒーは飲まないのだが。)しかし、夜の時間に予約が入っていてその準備をしているのか、テーブルセッティングはされていたが、店の扉には鍵がかかっていた。そこで、はす向かいのカフェに入った。そちらもオランダらしくシンプルな内装でお客さんもたくさんいたのだが、やはり最初に入ろうとしたカフェの方が落ち着くように感じた。

不揃いで古びたテーブルや椅子。壁に掛かっている絵。テーブルの上に置いてあるものたち。ちょっとした違いだが、その積み重ねが心地よさの違いをつくっているのだろう。明確な違いで言うとかかっている音楽の大きさというのは私にとっては大きい。言葉が分からないと言っても、音楽の音が大きいと頭の中、心の中のスペースを塞いでしまうような感覚だ。鳥の鳴き声や風の音というのが、BGMにはちょうどいい。

小さめのテーブルの上に道具を広げて、日本の家族や友人たちに向けたクリスマスカードを書いた。

言葉というのは本当に不思議だ。頭の中に浮かんでくる言葉を認知できる瞬間というのはあるが、それがどこからやってくるか分からないし、今みたいにこうしてパソコンに向かっているときはどちらかというと打ち出された文字を見て、言葉認知しているという順番に近い。

どこからやってくるかは分からないが、それがなんとなく頭からやってくるときと、身体からやってくるときがあるように思う。心が静かに落ち着いていると、身体の低い位置から、言葉がぽこぽこと浮かび上がってくる。それは人の話を聞いていても感じることがある。頭から出ている言葉は、どんなに言葉を重ねても、その人と出会った感じがしない。むしろ頭が酸欠になり、言葉を受け取る扉が閉まっていくような感覚を覚えることもある。心から出ている言葉を差し出しているかというのは、日記を書くときも、人に向き合うときも、心に留めておきたいことだ。

ガーデンハウスの屋根の上には相変わらず黒猫が丸まっている。このところ寒い日が続いていたが、今日は少しあたたかいのかもしれない。2019.12.17 Tue 9:53 Den Haag

491. 料理の音を聞きながら考える、他人との暮らしのこと

トントントントンと、キッチンから野菜を切る音が聞こえてくる。今日はカレーだ。味付けと火加減という料理の大半が得意でない私にとって、パートナーと一緒に料理を作る時間はひやかし程度に野菜を切るくらいしかやることがない。それでも作りながら食べものをつまんでいく楽しみ方をドイツで覚え、料理の時間が随分楽しくなった。と言っても、今はこうして私はキッチンの隣のリビングで日記を書いている。職人気質なところがあるパートナーの邪魔をしないようにキッチンをうろつくのはやめておこうという言い訳のもと、料理の音を味わっている。

他人と暮らすというのは、つくづく奇跡のようなものだ。少しでも相手に何かを求めることがあると上手くいかない。自分にとっての心地よさを自分自身でつくることに責任を持ちつつ、違いを楽しむということができるようになったのはここ数年のことかもしれない。以前、結婚していたときも、暮らしの中でストレスがあったわけではないが、それは「私が」であって、今思えば当時の夫は随分と譲歩してくれていたことがあったのだと思う。「この人は、言葉にはしないけれど思うところが色々とあったのだ」と分かったのは離婚を切り出されてからだった。そのときに比べると多少他人の気持ちを慮ることもできるようになったかもしれないが、基本的に、自分と同じくらいかそれ以上にマイペースで、ある意味強い我を持っているような人とでないと上手くいかないような気がしている。人間、大人になるとどんどん丸くなると思っていたがどうやらそうではないらしい。ここからまた意識が成長を遂げれば違ったものが見えてくるのだろうか。他者とであっても、自分自身とであっても、なんとなくやり過ごしたり目を背けていることに向き合うことによって人間性というのは深まっていくのだろう。

今日は昼時にセッションを終え、散歩がてら買い物に出た。しかし振り返るといつものオーガニックスーパーまでの道すがらの記憶がない。何か話に没頭していたのだろか。かと言って話していた内容を覚えているわけでもない。これはあまり一人のときには起こらない現象のように思う。コーチングセッションはこの状態には近く、その瞬間は対話の世界の中に没頭しているが、それが記憶として再生されやすいところに保存されるかというとそうではない。むしろ、記憶は新鮮な対話をするには邪魔だと思っている節もあるので、勝手に再生されないことは自分にとっては好ましいことではある。それにしても思い出せない。不思議なこともあるものだ。

先ほど、カレーを作り始める前も、今日追加で書き終えたクリスマスカードをポストに投函するついでにスポンジと洗剤を買うために近くのスーパーに出かけた。16時過ぎだがあたりはもう夜が降りてきていて、自転車で家路を急ぐ人々とすれ違った。今は18時過ぎだが、もう20時すぎくらいの気分だ。2019.12.17 Tue 18:18 Den Haag