483. あたらしい暮らしのはじまり

にわかにバタバタバタという音がし、「今日もアラレが降っているのだろうか」と思った。それはきっと昨日の夜中のことだっただろう。北の空には少しだけ紺が混ざってきた。水分を含んだ地面の上を、滑るように車が通り過ぎていく。向かいの家々の中で窓に明かりが付いているのは1ヶ所だけ。いつも思うが、この暗い朝の時間をオランダの人々はどうやって過ごしているのだろうか。いや、朝に限らない、夕方以降もリビング側の向かいの家々は明かりを付けているところがほとんどない。中庭を挟んだ側はいくつかの家の食卓のある部屋に明かりが付いているのが見える。同じように、リビング側の向かいの家の人たちも、中庭に面した部屋で食事を摂っているのだろうか。

昨日は満月。月が満ちたのと時を同じくして、新しい暮らしが始まった。
新しい、と言っても、未知の世界のようなあたらしさがあるかというとそうでもない。
1年半前まで送っていた暮らしに戻ったようなところもある。

以前と違うのは、住んでいる場所、家の雰囲気、ライフスタイル。おそらく、1年半という時間を通じて自分自身も何か変化をしているだろう。大して変わっていない自分に気づいて、愕然とするかもしれない。いずれにしろ、心に湧き上がってくる小さな泡を捉えたなら、その根っこにどんな自分がいるか分かるはずだ。

変わったもの、変わらないものの中で、静かな暮らしを続けていきたい。2019.12.13 Fri 8:17 Den Haag

484. 孤独という平穏

「外が真っ暗になったな」と思いながら、リビングの分厚いカーテンを閉めた。カーテンというより緞帳という感じだ。真紅でビロードの生地が3m近い天井から降りてきている様子は、小さな舞台をも思わせる。そうか、毎日私がこの窓から見ているのは一つの舞台だったのだ。同時に、逆側から見るとこの家の中が一つの舞台でもある。一日の中で何度か場所を変えながらも、家の中でずっと一人で過ごしている様子は、一人芝居のようなものにも見えるだろうか。

昨晩読んでいた本の中で印象的な一節に出会った。

−私たちは、すべてが自分のためだけにある、完全に自由になれる、小さな、人目から離れた庵を確保しなければならない。そこでは本当の自由と本質的な退却と孤独とを達成できる。(『「本当の大人」になるための心理学 心理療法家が説く心の成熟』諸富祥彦著より)

ミシェル・ド・モンテーニュ。16世紀、ルネサンス期のフランスを代表する哲学者の言葉だという。

現代社会に身を置き、ときに客観的にそれを眺めて思うのは、今、人は、他者との関係を断ち切って一人になる時間というのが極めて少ないということだ。「孤独」を感じる人は少なくはない。しかしその孤独は、自分の中に他者の存在を置いているが故の孤独なのではないか。目に見える人との関わりに加えて、目に見えない慣習や基準とも距離を置き、内的な自己と向き合うという行為を行うことは、実際の空間としても、精神の自立のようなものから見ても、困難になっているように思う。

孤独と向き合うことのできる小さな庵こそが、今自分がつくっていきたいものだ。

それは「solitude(平穏、孤独)」という言葉の語感が意味するものだと理解している。

そんなことを考えているのは、どんなに分かり合えているように感じる相手でも、結局は他人であり、ちっとも分からないのだということを実感しているかもしれない。誰かと一緒にいても、孤独を感じられるということは、私にとってとても心地いいことでもある。人と言葉を交わし、心を交わす喜び。それは究極的には人は一人なのだということを実感させてくれ、それでも何かを交そうとする尊さを感じることから生まれるのかもしれない。分かってもらおうとか、分かり合おうとか、そんなことを手放すと、生きることは随分楽になる。全くの他人と少しでも何かを交わせたかもしれないという小さな感謝で一日を終わることができたら、心は日々、あたたかく、solitudeでいられるだろう。2019.12.13 Fri 18:17 Den Haag

485. 人の存在と心のスペース

先ほどから、スースーと、ときどき、ガーと、寝室から寝息が聞こえてくる。日本だと今は26時すぎ。昨日、日本からオランダにやってきたパートナーは目下時差ぼけのようだ。時差ぼけもあるだろうが、それにしてもよく寝る。私もかなり長眠(そんな言葉があるのか知らないが)の方だが、それにも増して、感心するくらいよく寝る。以前、結婚していたときは週末、昼寝をしていると「草ちゃんは本当によく寝るねえ」と当時の夫にたしなめられていたが、どんなにごろごろしてもそう言われる心配がないというのは何とも気が楽だ。

それにしても人間の存在というのは不思議だ。人間の容積というのを計算するとどれくらいだろう。仮に、縦、横、奥行きが170cm×50cm×20cmくらいだとすると一人の人間は約0.2㎥にも満たない。この家の容積はざっくり240㎥くらいはあるだろう。(天井が高い分容積が大きくなる。)そうすると、一人の人間が占める容積というのはこの家のわずか1,200分の1以下ということになる。(本当だろうか?多少計算が怪しい気もするが…でも、100分の1以下であることには間違いないだろう。)人間に限らずだが、何かものがそこにあるということは、その容積以上の存在感を生み出すことになる。(その存在感の確固たるものがテレビだ。私はあの、ドーンとした黒い物体の存在感が苦手なので、家のテレビにはシーツをかけて存在感を抑えるようにしている。)人間ともなると、そこにあるだけでなく、動き回り、声や言葉を発する。同時に自分自身との心理的な関係性というのもある。総合すると、一人の人間というのは、ものすごく大きな存在なのだ。それは、特別な関係の相手に限ったことではない。この家は一人で住むには広すぎると感じるくらいだが、例えばここに3人が暮らすとなると、見かけ上のスペースとしては余裕があっても、なんとなく気持ちが息苦しく感じるに違いない。それは私が普段、極端に人との直接的な関わりが少ない環境に身を置いているというのもあるかもしれないが、今持っている感覚は割と人間として自然なものなのではないかという気もしている。

そう思うと、普段、人が他者から大きな影響を受けるというのもとても自然なことに思えてくる。心理的な存在としての他者は物理的な存在としての他者よりもずっと心のスペースを占めるのだ。そもそも人が持っている内的なスペースというのはどのくらいの広さなのだろうか。それはきっと伸縮自在だが、多くの場合、自分を取り囲む、物理的・空間的なスペースよりもずっと小さいのかもしれない。

内的なものを言葉にするというのは、内的なスペースに余白をつくっていくこと、もしくはスペース自体を押し広げていくことなのだろう。言葉にすることで、曖昧だったものが還る場所を見つけ、その分余白ができるというのは想像がつく。スペース自体が押し広げられるというのは認知や解釈の幅が広がることによって、言葉そのものの持つ意味の世界が広がり、その結果、言葉が占有するスペース自体が拡張するというイメージだろうか。後者についてはまだ強い実感はないが、今後、人の持つ「内的なスペース」が、言語化や対話を通じてどう変化するかについてはアンテナを向けてみたい。

電熱ヒーターにかけポットから、湯がすっかり沸いている音がする。一人のときと同じく静かでゆっくりとした夜がやってくる。2019.12.13 Fri 18:48 Den Haag