480. 凪

ここ数日間ことを思い返して、ふとそんな言葉が思い浮かんだ。海風から陸風に、もしくは陸風から海風に、風向きが変わるときの風が吹いていない状態を英語では「calm」と呼ぶことを知り、「凪」と「calm」は、100%意味が重なっている言葉ではないだろうと、そんなことを考えていたのもここ数日間のことだ。

明日は、2ヶ月半ほど日本に滞在していたパートナーがオランダにやってくる。それは私にとって間違いなく、風向きが変わるときなのだと感じる。それだけではない。たとえそのことを抜きにしても、私にとって今は、ちょうど、陸風が海風に変わるような、そんなときなのだと思う。

凪は、風がやみ、波がなくなっている状態とも言われる。本当にそうだろうか。自分自身の感覚を元にすると、風はやんでいるのではなく、双方の側から吹いているのだ。そのとき風は、見かけ上もしくは理論上「止まっている」と言われるが、本当は、片方から吹いているときよりも、総量としてはもっと強く吹いているのだ。そう言えば、大学のときに習った「水理学」という、流体力学を現実世界に応用した学問でも「波の合成」という話が出てきたことを思い出す。原理としては高校の物理で学んだことと同じなはずだ。海の波をはじめ、私たちが普段目にする「波(らしきもの)」は、実際にはいくつもの波の重ねあわせからできている。波がないように見えるものでも、それはいくつかの波が重なり合った結果、波がないように見えるようになっているだけだったりもする。

「凪」は、静かなようでいて、実は両側から強く風が吹いているかもしれないのだ。強風の中の静けさであることを知っていて、先ほどの私は、ここ数日間の自分のことを「凪」と思ったかは分からないが、今感じる限り、心はとても静かだ。外は暗闇。天井の高い寝室にオレンジ色の明かりが一つ。そこに一人。ちゃんと今を感じていたら、心が静かにならないわけがない。

ふと、「海の近くに長く住んでいた人は、人生には凪のときがあるということが感覚に染み付いているのだろうか」という考えが浮かんだ。風向きが変わる前の無風の状態を「凪」と呼ぶことを知らなかったとしても、日々繰り返される自然の変化を感じ、それがごく自然であるということを知っているのかもしれない。日本では、人生に行き詰まったと感じた人が自暴自棄になり、他者をも巻き込む事件を起こすことがある。(「日本では」と書いたが、他の国でもそうなのだろう。でも私は体感としては日本のことしか知らない。)それは私たちが自然と距離を置いて暮らすことになったこととも関係しているのではないだろうか。人生にも、風が吹かず、どちらに進んだら良いか分からないこともあるということを知っていれば、今現在の状態についてそんなに悲観的にならずに済むのかもしれない。

以前、山中湖の近くの原生林の中でゆっくりとした時間を過ごす「森のリトリート」というものに参加をしたことがあった。2泊3日の日程の2日目の夜だったか、宿泊していたロッジが揺れるのを感じるほどの地震があった。でもそのとき、不思議と怖さを感じなかった。「森にいれば大丈夫だ」と思った。そのときに分かったのは、私たちが「壊れるのが怖い」と思うのは、人工的に作られたものだということだった。建物が崩れたらどうしよう。交通機関が使えなくなったらどうしよう。家がなくなったらどうしよう。もちろん、安心して暮らせる場所は必要だし、暮らしを助けてくれているものもたくさんある。しかし、自然の中では、循環し、命を繋いでいくことが当たり前なのだ。

初めて森に入ったときに、倒れて朽ちている木があった。その身体には苔が生え、幹の表面に触れると木だと思っていたものは土のようにぼろぼろと地面に落ちていった。

それまで東京で幾度となく地震の揺れを感じ、その度に恐怖を感じてきた私が、森の中の小さなロッジにいるときに遭った地震には恐怖を感じなかったのは、森に溶け込み、生と死の境目がないような木の姿を見ていたからだろう。

「人生に行き詰まった」と感じるときは「こういうことができていたら素晴らしい人生なのだ」という物差しを持っているときでもある。しかし、生きていることそのものの尊厳や輝きは、どんな状態でも決して失われるはずはない。

今日も「こんなことを書くつもりはなかったのだが」という言葉が降りてきた。それは、凪を凪だと言えるようになる以前の自分に届けたい言葉なのかもしれない。2019.12.11 Tue 18:04 Den Haag