473. 自分の中にあった対立関係に気づくとき

空は明るいけれど、中庭には影がかかっている。「見えている部分の空は晴れているけれど、中庭の上の空には雲がかかっている」ということだろうか。人生にもそんなことがあるのかもしれない。見える空は明るい。でもまだ、自分の上に日が差しているわけではない。それでも空には明るい部分があり、雲はゆっくりと動いているのだから、いずれここにも光が差すだろう。そもそも、光が差していることが必ずしも「良いこと」とは限らない。結局のところ、世界は移ろいゆくのだから、その一時的な状態に一喜一憂することにどれだけの意味があるだろう。

書斎の窓から見える階下の屋根に目を向けると、平らな部分に水が溜まり、そこに空が映り込んでいる。風が吹き、水面が揺れる。ああ、これも、人間の心のようだ、と思う。そこには景色が映っているだけなのだ。揺れるのは水面であって、空ではない。もし、実際に広がっている空に目を向けることがなかったら、あの水面に映る世界が世界で、水面が揺れるとき、世界が揺れるように感じるのだろう。

夜の間に降った雨は、中庭の木々の枝に雨粒を残していった。裸になった枝枝の先に光の粒がぶら下がっている。この美しさと静けさを、いつまでも味わっていたくなる。

今ここにこんなにも静けさがあるのは、上下の家から物音がしないということもあるが、何より自分の心が静かだからだろう。南の空を登っていく飛行機が白い線を残していく。引かれる線を、ただ眺めている私がいる。

昨日、書籍の執筆が、今の自分の限界と向き合いそれを超えていく取り組みなのだと気づき、随分と気が楽になった。それに自分のペースで取り組んでいいのだという、友人からの後押しをもらったことも大きい。

執筆で向き合っている課題は、思い返すと他のテーマにもあてはめることができる。これまで(正確にはコーチという職に身を置いて以降)私は、「相手の可能性を信じて待つ・聴く」というスタンスを取ってきた。それは、人生経験が自分の何倍もあり、専門領域での知識も豊富な方々の前進を後押しするためにコーチとして必要なスタンスだったとも言える。コーチングを初めたばかりの人がぶつかる「上手くやらなきゃ」という壁は、私にとってはあまり大きなものではなかった。それは小さい頃から培われた「生き生きと、のびのびと表現すればそれでいい」という感覚が関係しているだろう。「人にどう評価されるか」という恐れを身につけずにきたことは、新しいことを習得するその入り口には良い影響を与えていたように思う。コーチになった当初は経験のあるシニアな男性コーチに憧れていたが、それがそのときの自分とは乖離した姿であることに割と早い段階に気づき、「経験がないからできること」にフォーカスすることができた。

そんな私が、コーチになって5年目以降、ある程度経験を積んでぶつかったのが「経験の壁」だった。読書や勉強が好きなことも後押しをして、人間に関する様々な知識や考え方を手に入れた。そして、自分の中でのケーススタディも積み重なっていった。するとどうだろう、無意識に人を、ケースに当てはめようとする自分が生まれはじめたのだ。人の悩みがどのような構造で起こるのか、解説をできるようになった気になる自分がいた。それは、ある面では間違いではないとは思う。しかし、一人一人の人生は、その一つ一つが唯一無二なのだ。どんなに統計的に正しくても、その人の人生にとっては初めて起ころうとしていることなのだ。それを唯一のものとして向き合い、見届けること。それが私がコーチとして共にいる意味なのだと思うようになった。そして今、唯一無二のものと、「人間としての原理」の間で再び揺れ動く自分がいる。正解を示す必要はない。でも、「同じように孤独な旅路でもがいている人がいるのだ」ということを伝えることはだれかの勇気になるのではないか。「味わい切っていいのだ」と思えることが次のステージにつながる道なのではないか。おぼろげにだが、そんなところにたどり着いている。

文章を綴るのも、人と向き合うのも、今、同じことがテーマになっているのだろう。未熟で稚拙な自分を感じ、もどかしくなることもある。しかしそんな自分を表現しきること、味わいきることが、今取り組むことなのだろう。そんな「今」がどれだけ続くのかは分からない。だからこそ、こんな風に孤独な旅路にいる人に、一人ではないと伝えたいのだと思う。2019.11.30 Sat 9:19 Den Haag

474. 「あわい」をつなぐ

部屋の扉を開けると同時に、16時にかけているアラームが鳴った。1日はすでに終わりに向かい始めている。まだ外は明るいが、出かけたときよりも随分気温が下がっているであろう空気の冷たさが、太陽が眠りにつこうとしていることを教えてくれた。

書斎の窓からは、目の前の木のてっぺん部分に三羽の鳥が止まっているのが見える。昨日も中庭に来ていた鶸萌黄(ひわもえぎ)色の体をした鳥だ。(昨日はそれを「黄緑色」と書いたが、今はそう表現することに違和感があったので、見ている色を表現できる、日本の色の名前を探したところ、「鶸萌黄」という色がぴったりときた。)三羽のうち、二羽が先に飛び立ち、残った一羽もほどなくして東の方向に飛んでいった。

昨日今日と私のテーマは自分の成長の構造を見つけることだった。それは昨晩、久しぶりにオランダに住む友人の著書である『成人発達理論による能力の成長』を読んだことも関連しているし、約2ヶ月ほど前に自分のコーチの一人から投げかけられた「これまで経てきた成長の構造を、現在の状況に置き換えてみる」というテーマとも繋がっている。まだこの課題については整理できていないが、昨晩から続く思考で、自分の経てきた能力と器の成長について構造化するということはできそうな気がしている。「こんなテーマを言葉にできるだろうか」と思っていたが、「できそうな気がしてくる」というのは不思議なものだ。それには、書籍という助けがあり、そして今日、自分自身について振り返る時間が取れたためであり、かつ、何だかんだ日々色々なことを考えてきたからかもしれない。しかし振り返ってみるとこの1ヶ月、11月というのは深く考えきれていなかったという反省の方が大きい。考えようとしてその材料を外部に求め、結果、外部からの刺激に身を晒しすぎて、内側から湧き上がる微細な感覚をキャッチできない時間を過ごしてきた。そう書くと、なんだか「そうなってしまった」という受け身な感じだが、そういう環境を選んだのは、自分自身である。何度か言葉にしたことがある気がするが、現在の環境の中では、自分を阻むものは自分しかいない。「現在の環境では」と書いたが、それはどんな環境においても同じだろう。

これまで何度か読んできていた『成人発達理論による能力の成長』だったが、今回読みながら湧いてきたのは、「歳を取るごとに成長には支援者の存在意義が大きくなるとともに成長は相互作用である」ということだ。「あの人はこういう能力が低い」「こういう成長が必要だ」と言うことがあるが、それは支援者にとっても何らかの能力や成長が必要だということではないだろうか。支援者の最適な支援があって発揮される能力のレベルと、対象者が独力で発揮することのできる能力レベルの差は、年齢を経るごとに大きくなり、適切な支援というのは歳を取っても必要だということは一般的にもたれているイメージとはギャップがあるだろう。この認識のギャップは、人が成人以降に成長を続けていくことの妨げとなっているように思う。また、能力開発が個人の責任と言うか、個の中に閉じて起こっていくというイメージも持たれていないだろうか。それぞれの人にそれぞれの苦労があるということを受け取りながらも、支援者の重要性と同時に、成長というのが協働関係の中で発揮されるということは、自分の専門領域と言葉を通じても伝えていくことができればと思う。優れた専門書が専門家が手にするものに閉じてしまっているというのは個人的にとても残念だ。

私は今世においては「翻訳者」や「通訳」の役割を担ってるのだということに気づいたのは、組織を辞めてほどなくした頃だったろうか。世の中には、目に見えるもの・測れるものの世界に住んでいる人たちと、目に見えないもの・測れないものの世界に住んでいる人たちがいるというのを知った。そのどちらにもどっぷりと浸かり切ることのできない自分にもどかしさを感じたこともあったけれど、分断されつつある世界をつなぐ役割を担っているのだと思うようになった。「あわい」という屋号を授かったのもそういうわけだったのだろう。どちらの世界にも属さず、あわいを行き来する旅は、まだしばらく続きそうだ。2019.11.30 Sat 16:51 Den Haag