469. 車で待つ犬

キッチンで小麦若葉のパウダーをマグカップに入れ沸かした湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜていると、家の前に停まった車の助手席に犬が座っているのが見えた。一瞬、運転席に座っていると思った私には、まだ日本の感覚が染み付いているのだろう。オランダで見る犬にしては小ぶりで、クリーム色の毛に茶色いブチがある。飼い主を待っているのだろうと様子を見るも、犬は置物のように動かない。まばたきもせず、フロントガラスの向こうを見ている。今思えばそのとき、私の心は割とまっさらだったのだと思う。「犬が寂しそうに遠くを見ている」と思ったとしたら、それは犬をそう見ている私がいるという話だからだ。そのとき、犬はただ、そこにいるように見えた。私もただ、そこにいたのだと思う。

ほどなくして男性が同じ犬種で少し色の違う犬を連れた車の脇に立ち、後部座席の扉を開けて足元の犬を抱え上げ、後部座席に乗せた。そして自分の上着を車の後ろの荷物入れに入れた。外は雨が降っている。そんな中上着をわざわざ車内ではなく荷物入れに入れるということは、犬の毛がつくことを避けたかったのだろうか。きっといつもそうしているのだろう。なんてことをぼんやりと考えていた。

男性が運転席に座っても、助手席で待っていた犬は特段男性の方に近づいたり尻尾を降ったりする様子はない。そこで私は「犬は一人で留守番をしているときに寂しい気持ちなはずだ」と思っていたことに気づく。子どもも、保育所などに預けていくときに「ごめんね」と思われると、それによって寂しい気持ちになると聞く。オランダの人は日本よりずっと身近に犬と暮らしている。オランダで一般的なレンガづくり家の一角から大きな犬を連れて出てくる人を見かけることも珍しくない。オランダの人は「自分の気持ち」と「相手の気持ち」を切り分けることが上手だと感じるが、同じように動物ともほどよい距離感で暮らしているのだろうか。そんな中、夕方、仕事帰りであろうスーツの男性が自転車に乗り、その少し後ろを犬がついてきている様子を見ることもある。ほどよい距離感ながらも、仕事場に一緒に行くその関係とそれができる環境が好きだなあだと感じる。

今日は目覚める少し前から雨の音を聞いていた。そして、6時の目覚ましが鳴り、その後、いっとき鈴の音のようなものが聞こえていた。「今日も雨か」、そう思いながらまた目を閉じた。

それより前に、今日も随分と長い夢を見ていた。もう頭には一部のシーンを切り取った映像しかなく、それも今どんどんと薄れていっている。そんな中で覚えているのは、夢の中に出てきた少し年老いた女性について「これは自分自身を投影しているものだ」と思ったことだ。そのとき既に、それが夢であることには気づいていたのだと思う。2019.11.27 Wed 9:08 Den Haag

470. 年老いた犬とともに

先ほど犬の話を書いているときに、「犬を見たときに頭を巡ったことがもう一つあるはず」と思っていたが、それが、「年老いた女性」の話を思い出したときに、連なって思い出された。車の助手席に座る犬を眺めながら、私は実家にいる犬のことを思い出していた。もう15歳くらいになるだろうか。やってきたのは私が大学生になって数年するかしないかの頃だと思う。(もしそうだとすると、もっと歳を取っているかもしれない。)

おなかの上にちょこんと座るくらいの小さな犬が、あっという間におなかに乗せるには苦しいくらいの大きさになった。「ギン」という名前は母が付けた。我が家は兄妹三人、拓(たく)、草(そう)、礼(れい)と、漢字一文字で音は二つなのだが、それに続くようにしたのだろうか。育った家でずっと猫を飼っていた母にとって、犬を飼うのは念願だったはずだ。その気持ちがいよいよ満ちたときだったのか、父と母は、保護された犬を譲渡してくれる施設から、あるとき柴犬とボーダーコリーという牧羊犬のミックスだという黒い犬を譲り受けてきた。なぜギンという名前にしたのかいまだに知らないが、きっとずっとそうしたかったのだと思う。(母の実家にいた猫は「ばたんがす」という名前だったと聞いている。誰がどうやってその名前を決めたのかやはり知らないが、今調べてみるとフィリピンに「バタンガス」という名前の州があることが分かった。しかし、やはりなぜそれが猫の名前になっているのだろう…。)

前回実家に帰ったとき、いつもなら私が玄関を開ける音を聞きつけて、タッタッタッタとやってくるはずのギンちゃんが姿を表さなかった。もうほとんど耳が聞こえなくなっているのだという。リビングのテーブルの下にある寝床に近づくと、のそのそと起きだし鼻を舐めようとするので、私のことはわかっているようではあった。そういえばギンちゃんを残して出かけるとき、父と母はいつもラジオをつけっぱなしにしていた。人の声があるほうがギンちゃんが落ち着くという話だったような気がする。耳が聞こえなくなった、ギンちゃんは特段気にせず、穏やかに過ごしているようにも見えるが、何かにあらがうエネルギー自体も少なくなっているのかもしれない。

耳とともに足もだいぶ弱くなっているようで、実家で私が滞在する2階部分(実家は団地の5階部分が2階建になっているので、実際には6階部分ということになる)まで、もう登って来なくなっていた。父も足腰が悪くなっているので散歩のときにゆっくり階段を降りるのは、お互いにとってちょうどいい具合だろう。

少し前に、母から「携帯が変わったのでメールアドレスも変わりました」と連絡が来た。そこには、母の名前と、「gin」という文字が入っていた。ギンちゃんはこの先、一緒にいられる時間は限られているだろう。それが終わったとしてもこのアドレスを使い続けるのであろう母のことを、それが分かっていてアドレスに犬の名前を入れた母の気持ちを思うと、子ども三人と犬と(もちろん夫である父とも)、「共に生きる」ということを続けてきた母の人生に思いが巡った。

「オランダにそのうち遊びに来たら」と言う私に、父は「ぼんぼん(なぜか父は母のことをぼんぼんと呼ぶ)、言ってきたらいいんじゃない」と言った。父は足腰のことがあり、この先オランダまで来るのは難しいと思っているのかもしれない。そうすると母は耳が遠くなっている犬に、「毎日一緒にいようって約束したんだもんね」と話しかけた。

母は、横浜に住む90歳を越える祖母にも年に何回か会いに行っている。オランダに来るのは当分先になるかもしれない。

歳を取ると、「自分」が広がっていくのだろうか。そして「自分」も誰かの人生の一部になっていくのだろうか。ゆるやかに重なり合う生が、にじみ絵のように頭の中に広がっている。2019.11.27 Wed 9:33 Den Haag