460. 記憶の不思議、言葉にすること、しないこと

数日前の日記を読み返し、記憶の不思議さというものに驚いている。そのときはどんなに思い出そうとしても思い出せなかった人の名前が、すっと降りてきたのだ。記憶というのは、体験したことや視覚情報と、名前のような言語情報のようなものが別々にしまわれているのだろうか。そういえばちょうど先日、人はある情報の内容そのものは覚えていても、その情報をどこから入手したのかは忘れやすいという話を読んだ。やはり記憶には何か仕組みのようなものがあるのだろう。読んだものよりも、見たもの、聞いたものの方が忘れにくいということもあるそうだ。少なくとも私にとっては名前よりもそのときの体験の方がよっぽど強烈だったのだろう。その体験自体をアウトプットしているときには、思い出せなかった名前という情報が、一度体験をアウトプットした後に、それを読んでいるときには出てくるというのは興味深い。

こうして日々、頭の中でも実際の世界でも、色々なことが起こっているはずだ。しかしほっておくとそれらはその場で捕まえられることも後から振り返られることもなく、どんどんと通りすぎていってしまう。ここのところ17時を過ぎる頃には外がすっかり暗くなっている。食事をして、休憩をして、また何かの作業をして、としているうちに日記を書かないまま20時をすぎ、その頃にはもう思考や感情を働かせるエネルギーが残っていない。というのは、言い訳かもしれない。目を背けたいことがあるのだ。言葉にしてしまうとあまりに情けないような、もどかしいような…。暮らしも仕事も、概ね、というか、十分にありがたいことばかりだ。今、一つだけ変えたいことがあるが、それについては自分ではどうにもならない。いや、どうにもならないことはないのだが、自分でどうにかするということからは距離を置いている。これについては、状況が変わったとき、もしくは自分でどうにかすることを決めたときに、言葉にしていきたい。

リビングから見える通りには、中心部と逆の方向に向かって自転車を漕ぐ人たちが増えてきた。(と言っても、中心部に向かう車線はリビングの机からは見えないのだが。)一日は早くも、終わりに向かい始めている。2019.11.21 Thu 14:43 Den Haag

461. 歳をとる、死に向き合う

グワングワンという機械音と、ガタガタガタと、物が揺れる音がする。上の部屋で洗濯機が回っているのだろう。と、ブーと、呼び鈴のブザーがなった。この時間には配送業者は来ないはずだ。私の住むオランダ式の1階と、その上、2階の呼び鈴が交互に鳴らされ、ほどなくして、階段部分の電気が付いた。上の部屋の住人が出て行ったようだ。

今、中庭をはさんで向かいのいくつかの家には明かりが灯っている。向かいの家は男の子が二人いる四人家族、その隣の家は年配の女性が一人住んでいる。二つの家のキッチンは隣り合っていて、家族づれが賑やかに食事の支度をする隣で、年配の女性が一人、食事の支度をしている様子が見えることがある。それを見て、美しい光景だと感じる。家族という存在を持ったとしても、人はいつかはまた一人になるのだという切なさのようなものも感じるのが、それも含めて美しいと思うのだ。

今日は午後の打ち合わせの途中に「ウェルエイジング」という言葉に興味を持った。人は誰しもが人生の終わりに向かっていく。できることや人間関係など、あらゆるものがだんだんと縮まっていくだろう。(「あらゆるもの」というのは語弊があるかもしれない。私がまだ捉えていない領域で、拡張していくこともあるのかもしれない。)それに対して、どう向き合っていくのか。

最初に入った会社は、九州のビルメンテナンス会社と合併していたこともあり、100人ほどが働くフロアに女性は10名ほど、私と、2年くらい先輩の女性だけが正社員で、他の女性はパートや派遣の人だった。私はそこで自分が歳を取り、仕事を続けていく様子が想像できなかった。次の会社に転職した理由はもっとやりたいと思ったことがあったためだが、そこで仕事を続けていく未来も描けなかったのだと思う。

もう一つ気になっていたのは、ある「島」と呼ばれる机の集まり(これはどこの会社にもある呼び方の慣習なのだろうか)に座る、年配の男性たちのことだった。その島に座っている人たちのパソコンは大抵、17時をすぎるとスクリーンセーバーが作動していた。そして17時半、終業と同時に席を立っていく人たち。残業で遅くまで働いているのはいつも20代から30代前半の若い人たちだった。その様子が私は不思議で仕方なかった。

企業の中で、役職定年を迎えた後の人たちにどんな仕事をしてもらうか、どんな風に関わればいいかというテーマはよく聞こえてくる。キャリアプランだスキル開発だと言われていたところから、気づいたら目標や取り組みたいことなど聞かれなくなる。そんな環境はその人が持っている力を発揮することを後押しはしないだろう。そして、「気力」や「体力」と同時に「脳力」(脳の働き)も、人によっては衰えていくのかもしれないという考えがふと、浮かんできたのだった。「いやいや、55歳をすぎても、まだまだ脳の働きは衰えたりはしない」と言う人もいるだろう。でも全員がそうとは限らない。ゆるやかに、もしくは急激に、衰えていくこともあるかもしれない。

企業人生を終えることは一つの「死」とも言えるのかもしれないそのときにどう向き合うか、そこに向けてどう準備をしていくか。これから、体の衰えよりも早く、企業という一つの社会での人生に区切りをつける人が増える中で、重要なテーマなのではないか。

死に直面した人は意識が変容することもあると言う。しかし現代社会において、私たちは死を感じること、死に直面することは少なくなっているだろう。あたたかい地域に哲学者が少ないのも、この、死との距離感にも関係しているのではないかと思う。

節目節目の死、そして日常の中の死に向き合っていくことが「ウェルエイジング」であり、これからの日本社会にとって大きなテーマとなっていくのではないか。ざっと調べてみる限り、今のところ「ウェルエイジング」とは、主に身体の健康に対して使われているようだった。しかし、心や関係性に関する「縮小」をどう迎えていくかというのは身体の機能の衰えと同じように、いや、それ以上に重要なテーマなのではないか。そしてそんな目に見えないものを含めた「ウェルエイジング」についてのヒントが今暮らしているオランダにはあるのではないか。そんなことを考えた午後だった。

白髪の老人はまだ、キッチンで何か作業をしている。キッチンから続く大きな本棚のある部屋にはいくつかの間接照明が灯っている。私からは「美しい」ように見えるあの女性も、実際には様々な思いや感覚を感じながら日々を過ごしているのだろう。それも含めてやはり「美しい」と思う。2019.11.21 Thu 19:24 Den Haag