452. 長い夢のあとに

書斎の窓を開くと、冷たい風が吹き込んできた。
庭の棚に伸びる葡萄の蔦になる葡萄の房はだいぶ少なくなったが、まだそれでも、「いくつも」と言っていいくらい、垂れ下がっている。葡萄の葉はだいぶ落ちた。と思って視線を上げると、庭の真ん中にある大きな木についていた葉は、もうほとんど落ちているということに気づく。西側の下の方の枝の一部にだけ、芥子色(からしいろ)をした葉が揺れている。庭を歩いていた黒猫がガーデンハウスの屋根に飛び乗り、そしてまた、トコトコと屋根の上を歩いていく。

今日も随分長いこと夢を見ていた。起きたときには割とはっきりその全貌を覚えていた気がするが、それはもう、うすい氷の向こうに見える景色のように、ぼんやりと消えていっている。夢の感覚を思い出しているうちに、だんだんと頭の中を占めていた夢の影も、足元に降りていった。

今日は自分の中では休養日だ。体調を整え、目の前に広がったものごとを整える。実務としていくつか、いや、いくつもやりたいことはあるが、まずは、全体を見渡し、必要なものに必要なときに手をかけられるようにしたい。

向かいの家のリビングでは、成人男性と小さな男の子が暗い中で追いかけっこのようなものをしている。オランダの朝というのは随分ゆっくりなのか。わたしも、ゆっくりゆっくり、感覚と外の景色に目を向ける一日にしたい。2019.11.13 Wed 8:28 Den Haag

453. ベネチアの街を思い出して

「今日は自分の中では休養日だ」と、ちょうど半日前に自分が書いた文章が目に入る。
休養日なんてとんでもない。振り返れば、集中力と思考力をフルに使った一日だった。
仕事がひと段落し、いつも楽しみにしている友人の日記を読み、カカオパウダーとソイプロテインに蜂蜜を加え、お湯を入れた飲み物と、ゴマの入ったビスケットを片手にパソコンに向かっている。就寝中に必要なタンパク質を補給できるようにと、夜はソイプロテインを溶かしたドリンクを飲んでいるのだが、ソイプロテインは、ヘンププロテインと違って、お湯に溶かすと「だまだま」になる。ひどいときは、冬に日本の自動販売機で売っているおしるこに入っているおもちのような感じになるのだが、これはこれで結構好きだったりもする。そういえば、いつも行くオーガニックスーパーには小豆が売られているはずだ。今度、おしるこを作ってもいいかもしれない。なんて、すっかり甘いもののことを考えているのは頭が糖分を必要としているからだろうか。今日は午前中に果物を食べるのを忘れるくらい、とにかく目の前のことに集中していた。

そんな一日だったから、ベネチアを旅行中の友人の日記が、余計に、色鮮やかな世界に繋がる扉のように、心踊る風を届けてくれたように感じた。

驚いたのは、ベネチアは運河の水が溢れて浸水することがあるということだ。去年の7月、ベネチアに数日滞在したことを思い出す。しかしそれはきっと、現在のベネチアとは全く違うだろう。自分が「知った」と思っていることが、その、ほんの一部、一つの面でしかないということを実感する。そのときも、そこに流れる時間、音楽、空気、景色、目に入るもの、聞こえてくるもの、感じるものを存分に味わったと思っていたが、それはそこにある刹那の輝きに過ぎなかったのだ。

人間もきっと同じだろう。「知った」と思ったことは、その瞬間のことに過ぎない。その瞬間にこれまで生きてきた人生の時間全てが含まれていると言うこともできるが、それでもやはり、自分が感じることは、そこにある一瞬の輝きに過ぎないのだと思う。「過ぎない」というのは、楽観でも、悲観でもない。尊さを慈しむ気持ちと、果てしなさに途方に暮れる気持ち、どちらも含んでいる。

私はなぜだか、ベネチアで、「おじいちゃんはきっとこの場所に来ただろう」ということが浮かんだ。祖父は英語の先生だったが、絵を描くこと、歌うこと、旅をすることが好きだった。おそらくその時代にしてはたくさんの国に足を運び、行く先ごとで出会った絵画に影響を受け、絵の作風もどんどんと変化していった。我が家ではみんな、誕生日やクリスマス、新年に祖父の描いた葉書が送られてくるのを楽しみにしていた。祖父がどの国を旅したかは知らない。しかし私は、ベネチアで強く「ここに来たのだ」と思った。もしかしたら、祖父の描いた絵に、ベネチアの景色を思わせるものがあったのかもしれない。いやきっと、私が感じたのは、祖父が生き、奏でるその旋律の中に織り込まれた、ベネチアでの体験だったのだろう。

アラスカを生活の拠点にしていた写真家の星野道夫さんの『旅をする木』という本の中に、こんな一節がある。

−「いつかある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろう。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって…その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」

祖父は、たくさんの絵を残してくれた。言葉を残してくれた。でも一番残してくれたのは、生きるということを味わうことの美しさを、生きることを通して伝えるということだったのだと思う。自分が目にする景色が、自分の心に影響を与え、心が、見る景色に影響を与えるということを、旅先で、そして日常の中で絵を描き続けることによって教えてくれていたということを、ベネチアの、小さなギャラリーが並ぶ様子を思い出しながら、思い出している。2019.11.13 Wed 20:50 Den Haag

454. 集中と気まぐれ

時刻は21時に近づき、そろそろパソコンを閉じようという気持ちも起きているが、今日、集中していたことを振り返っておきたい。

この1ヶ月以上、企画している書籍の執筆を進めようとしてきたのだが、なかなか進まず頭を抱えていた。その一つの要因は、「本題」に入るまでの「前段」で一章分を取っていたのだが、そこがあることで、多少大衆向けにはなるものの、本題の方に興味を持ってくれた人にとっては退屈な内容になってしまう可能性があるということ。つまりは、誰に向けて書くのかが、曖昧になっていたことが挙げられるだろう。何度も構成を検討しなおした結果、今のところ、「前段」で書こうとしていたことはWeb上で読めるようにし、それで興味を持った人が書籍を手にするという流れが良いのではないかと思っている。そもそも、最終的に本の形になるかはまだ分からないが、いずれにしろ、僅かながらも私のこれまでの経験をかき集めたものが誰かの役に立てばと思っているので、人が手にできる形にしていきたいと思う。

当初、「コミュニケーションスキルを新たに身につけるのではなくコミュニケーションに関する認識をアップデートする」というのを大きなテーマとしていた。これについても紆余曲折、ぐるぐる回ったが、結果として、同じところに戻ってきた。同じところではあるが、スタートしたときよりも、なぜこのテーマが今必要なのかは深まっていると思う。インターネットで「コミュニケーションスキル」や「コミュニケーション能力」と調べると、大抵、「話す」「聞く(聴く)」という内容が出てくる。しかし、現在私たちのコミュニケーションはどうだろう。テキストでのやりとりはもはや「話す」でも「聞く(聴く)」でもない。これまでは少なくとも「声」という心身や環境に関する情報がふんだんに入った媒体を使ってコミュニケーションを取っていたところから、テキストという、声に比べると圧倒的に含まれる情報が少ない媒体を使って、これまでよりも、多様な相手とやりとりをしなければならないという環境に私たちは身を置いている。それなのにまだ「コミュニケーション能力」=「話す」「聞く(聴く)」能力だと思っていることそのものに、コミュニケーションに関する私たちの課題の根本はあるのではないか。そして、これは仮説だが、「話す」「聞く(聴く)」の方も、テキストでのコミュニケーションに引っ張られ、テキスト化(情報化)しているのではないかと思う。人間は、コミュニケーションを交わす相手と方法が多様になっているにも関わらず、今なお、様々な思い込みにとらわれ、かつ想像力はどんどんと乏しくなっているのではないか。

身体全体を使ってコミュニケーションを交わしていたところから、音声・言語を中心としたコミュニケーションへ、そして身体や環境情報を含まないテキストでのコミュニケーションへ。コミュニケーションは3.0の時代に入っているとも言えるかもしれない。

なんてことが、やっと一本の線で結ばれることを時間できたのが今日だった。大きなテーマとしては「コミュニケーションに関する認知の更新」、そして、その中身としては、言葉の意味がどうやって生成されるかや、コミュニケーションを阻むもの、私たちの持つバイアス(感情・欲求・記憶・認知・発達)についてということになるだろう。「バイアス」と言うと悪いもののように感じるが(これも一つのバイアスだ)、必要だからそのバイアスを持っているとも言える。これを、「バイアス」と呼ぶべきか、「フィルター」や「レンズ」もしくは「メガネ」と呼ぶべきか、書き進めて全体のトーンを調整したい。

そして、これまで色々な文体で書くことを試してみたが、結論としては、私自身が話しかけているような、「丁寧な口語」にしていきたいと思っている。私は、コミュニケーションに関する専門家だが、何よりコミュニケーションの課題に自ら向き合う実務者として、自分自身の体験や反省を盛り込むことで、人と関わる人に、少しでも希望を感じてもらえたらと思っている。

もう一つ、検討を重ねる中で、テーマにしたいと思ったのが「ヒューマンサービス」ということだ。別の言い方をすると「人間が人間に関わる意義」と言ってもいいだろう。近年、情報技術の発達により「AIに奪われる仕事」というのも話題になっているが、たとえ、機会が行なった方が効率がいいことでも、それを人間がやることに意味があることがあるのではないか、「人間に関わる仕事」というのはその一つなのではないかと思う。音声であれ、テキストであれ、人と人とが何らかの形でコミュニケーションを交わす意義というのを考え、試行錯誤の中で人と関わり続ける人たちにとっての、これも僅かであるが後押しになればと思う。

色々なテーマで書き散らかした原稿を組み合わせ、必要なパーツを書き足して、企画書と共に提出するということを、来週末あたりにはできればいいなと思うが…。なかなか思ったように進まないものの、筆が進む条件というのも明らかになってきている。日々、小さな達成感を感じつつ、そろそろ、ある程度の形にしたい!と、こうして日記に書くことで、自分を後押ししている。

そんなこんなで、今日こそは発行しようと思っていた、半月に一度書いているニュースレターを今日も書かないまま一日が過ぎてしまった。「気まぐれに」という、宣言通りになっているが、それが「気まぐれ」というものだ。
2019.11.13 Wed 21:23