436. 余韻を聴く朝

シャワーを浴び、太陽礼拝のポーズを繰り返している間に湯を沸かし、沸かした湯を冷ましている間に着替えをし、白湯を飲み、クコの実を湯飲みに入れ、また湯を注ぐ。クコの実をふやかしている間に髪の毛を乾かす。そんな毎朝の日課について書くのは久しぶりな気がしている。毎日繰り返していること、そこにどれだけの注意を向けられているだろうか。

太陽が中庭を挟んだ向かいの家の屋根から光を放っている。あのあたりから昇ってきているということは、日の出の場所も随分と南寄りになっているはずだ。

鐘の音が聞こえる。ゴーンゴーンとゆっくり鳴り出したところから、ゴンゴンゴンゴンと続く。そういえば、日本ではこんなに頻繁に鳴らされる鐘の音を聞いたことがなかったかもしれない。余韻を味わうというのは日本人独特の感覚なように思う。

それは、一昨年、ハーグに来たばかりのときにハーグに住む日本人の知人一家とともにビーチで開かれた花火大会を見に行ったときにも感じたことだ。次々と打ち上げられる他国の花火に比べて、日本の花火はゆっくりとしたペースで打ち上げられるように感じた。打ち上げられる光だけでなく、落ちながら消えゆく光を惜しむように。

気づけば、鳴り止んだ鐘の音の余韻に救急車の音が重なっている。この街で救急車の音を聞くのはそんなに頻繁ではない。

書斎の窓、身体の右側から差し込む光が前髪を通り、そこに小さな虹をつくっている。今日はボルダリングに行こうかと思っていたが、せっかく天気がいいので、公園を散歩してもいいかもしれない。公園の中でストレッチができればとても良い。今心身が必要としているのは、太陽の光を浴びること、全身をほどよく動かすこと、自然を感じること。小さくて美しいものを感じること。

今思えば、子どもの頃に遊んだ屋外のアスレチックのようなものは、身体と思考、心に程よい刺激を与えてくれたように思う。あんなふうに無心に、目の前のものに向き合い、身体を動かす時間をもっと増やしていきたい。

今朝も長い夢を見ていたように思う。夢の終わり頃に、夢の振り返りをしていた気がするが、それは、夢の中だったのか、もう目覚めていたのか。

せっかくのお天気だから、と前に向かう気持ちはあるが、まずはゆっくりゆっくり、部屋の掃除から1日を始めたい。2019.11.3 Sun 9:45 Den Haag

437. 日本とオランダの間 –それぞれの旅路-

今年、と振り返るにはまだ早いが、これまでの10ヶ月間、日本から何人もの人がオランダを訪れてくれた。そうは言っても、平均すると2ヶ月に1人くらいのペースで、そうすると数えるほどなのだが、もともと知り合いが多くはない私にとっては「何人も」という感覚だ。中には数年来の知り合いもいれば、はじめましての人もいる。数日から数週間を我が家で過ごしていった人もいれば、食事やお茶を共に話しをしただけの人もいる。我が家に滞在する人とも、基本的には一緒に出かけるわけでも、食事を毎回共にするわけでもないので、朝もしくは夜にお茶を飲んで話しをするだけだ。

それぞれに、思い思いの時間を過ごして帰っていくが、それぞれに何かを見つけて帰って行っているように感じる。それはいつもと違う環境の中で過ごす時間が与える影響というのもあるだろうけれど、オランダまで来る飛行機の中で、変化や発見はすでに始まっているのではないかと思う。いや、もしかしたらそれは旅支度のときからなのかもしれない。

オランダもしくは欧州行きのチケットを予約するというのは一つの大きな決断だ。お金もかかるし、何よりも人生の貴重な時間を飛行機の中と異国の地で過ごすことになる。それを決めるということは、その時点で、何かを決めているのだろうと思う。

仕事を整え、荷物をまとめ、家を出る。そのときからもう眼に映るものがいつもとは違って見えているはずだ。私たちが外にある世界に見出す景色は、心の中の景色なのだと思う。

そして10時間を超えるフライト。ずっと映画を見ているかもしれないけれど、普段の生活の中のように流れゆく外的な情報に晒されない中で、心は少しずつ、静けさを取り戻していく。ここまで過ごしてきた時間を振り返るかもしれない。これからのことに思いを馳せるかもしれない。すでにいろいろな国の人たちが乗る飛行機の中で過ごす時間は、まぎれもなく、旅そのものだ。

今は飛行機を降りればまたどこでもすぐにWi-Fiがつながる。飛行機は、今、文明・情報化社会に生きる私たちのつかの間のdisconnected(つながらない)な場所なのだ。(最近では飛行機の中でもWi-Fiがつながるようになっているが、日常から非日常へとモードを切り替えていく貴重な場所が、必要以上に情報や他者とつながらないままであってほしいと切に願っている。) 

そしてオランダの地に降り立つ。非日常の刺激があり、それでいて生命の危険を感じるわけではない。そんなバランスが、心を世界に開きゆらゆらと揺れ出すのにはちょうどいいのだろう。他者の期待や社会の慣習ではなく、自分の心が何に喜び、何を美しいと感じ、何を使命とするのか。そんなことに自然と気づいていくことになる。

帰りの飛行機でもオランダや欧州で過ごした時間のことを思い出しているはずだ。そこで得たものは何だったのか、手放したものは何だったのか、後になって気づくかもしれない。自分では気づいていなくとも、心の景色は更新されている。家に帰るまでの道のり、そしてそれから続く毎日も、それまでとは違ったものに見えてくる。そうして、人は、自分が、これまでもずっと旅人だったことに、そしてこれからもずっと旅人であることに気づくだろう。2019.11.3 Sun 10:49 Den Haag

438. ボルダリングでの新たな気づき

玉ねぎとマッシュルームを炒め、豆乳と野菜の出汁を加えたものを電動ミキサーで滑らかにした。電動ミキサーという言葉が正しいのか分からないが、先日購入した小さな歯のついたキッチン用品は、スープをつくるのに大活躍をしている。手頃な値段だった割に使い勝手がよく食の楽しみが広がったので、せっかくだから同じシリーズのジューサーも購入しようかと今日同じ店に足を運んだが、残念ながらジューサーは売り切れていた。オランダではスムージーがメニューにあるカフェも多い。フレッシュなジュースを作ることは家庭でも一般的なのかもしれない。次にどこかで手頃な価格のものを見かけたら今度こそ購入して、今度は野菜ジュースをつくりたいと思っている。スープやジュースは出来上がったものも売られているが、発酵など特別なことをしているもの以外は作ってから時間が経っているものよりも、作りたてのものの方が身体にもいいだろう。オランダ語で書かれた料理本が読めないのは残念だが(今のところまだオランダ語を本気で勉強する気は起こらない)、様々なレシピを手軽に検索することができるのは、現代のありがたさでもある。

今日はボルダリングに行くか散歩に行くか迷ったが結局ボルダリングに行くことにした。ハーグには、我が家からバスやトラムで行ける距離に2つのボルダリングジムがある。そのうち一つは以前一人で訪れたが、もう一つのジムはまだ訪れたことがなかった。以前訪れたジムは倉庫のような広々とした空間で、人もそこまで多くなかったため、気持ちはよかったのだが、家から歩いて5分ちょっとくらいのところにあるバス停から25分ほどバスに乗り、バスを降りてからさらに10分ほど歩かなくてはいけない。特にバスを降りてからは、住宅街でも商店街でもなく、オフィスの入った建物が並ぶ中を歩くため(中と言っても、建物と建物の間には距離があり、狭苦しい感じではない)、その道のりはあまり心踊る感じではないため、今後足を運ぶとしたらもう一つのジムとどちらがいいか比べておきたかった。もう一つのジムは Den Haag HSという、通過列車の通る大きな駅の裏側にある。Den Haag HSまではうちから歩いて5分もかからないトラム乗り場からトラムに乗れば20分弱で着くことができる。ジムまではトラムの到着した場所から歩いて5分強ほどだった。

そのジムはロープをつけて行うクライミングの施設もあるということで、写真ではかなり天井の高そうな場所のイメージだったが、行ってみるとクライミングとボルダリングの場所は分かれており、ボルダリングの場所は、天井がクライミングウォールよりも少し高いくらいで、以前行ったもう一つのジムよりは随分低かった。そして、何やら大きな音で音楽がかかっていて、人も随分たくさんいる。受付でお姉さんが、今日はボルダリングのアプリに関連する大会が開かれていて、その課題にチャレンジしている人がいるということだった。そのためなのか、いつもなのかは聞かなかったので分からないが、人の邪魔にならずにどこのウォールを登るべきかと思案するくらいとにかくたくさんの人がいた。それに悩むのは、レベルの違う課題が近い位置もしくは重ねて設置されているからだろう。以前友人とボルダリングをしたフローニンゲンのジムも、ハーグで先日訪れたジムも、スペースに余裕があるせいか、もっと課題同士が重なり合わずに設置されていたように思う。日本のボルダリングジムではスペースのためもあってか、まず、自分が使っていいホールドの位置を確認しないといけないくらいいくつもの課題のホールドが同じウォールの中に配置されていて、ボルダリングとはそういうものだと思っていたが、それはスペースの問題だったのだということが、YouTubeでボルダリングの大会を見たりオランダでボルダリングジムに行ってみて分かった。

今日のジムでは一番簡単な課題が赤色、次が青色、その次が黒色ということになっていた。赤色の課題を見て回ると、見るからに簡単そうだったので、いくつかの赤い課題にチャレンジした後、青い課題にチャレンジをすることに切り替えた。しかし、結論としてはどうも自分にとっては心地が良くなかった。それは大きな音でかかっていた音楽と、人の多さのためだろう。私にとっては外からの刺激が多く、身体の感覚とホールドの声のようなものに十分に集中できなかったと振り返る。これまで、あまり難易度の高くない課題だったというのもあるが、「ホールドに身体が教えてもらっている」という感覚があった。アフォードされるというのだろうか。意識ではなく、無意識の領域が壁と対話しているようなそんな感覚があったのだ。しかし、今日は、意識が、意識の中でどうにかしようとしていたという感じだ。それは私自身の経験や技量もあるだろう。あの音と人の中で静けさをつくりだせるようになることが目指すところなのかもしれない。しかし、今のところ、そこに向かうにはもう少し静かな環境で壁と身体に向き合うということが必要なように思う。

そんな中でも発見もあった。「できない」と感じる瞬間があるということだ。青い課題を登っていたときのことだ。最後のホールドを左手で掴むためにはまずは左足を新しいホールドの上に移動させ、重心を右足から左足に乗せ替えないといけなかった。しかし左足を新しいホールドの上に乗せるには、右半身で左側に身体を押し出さないといけない。それを私は、一度やろうとして失敗し、「できない」と思った。もう少し詳しく言うと、右手で身体を押し出し、左足が新しいホールドの上に乗り、次に左手が新しいホールドを掴むまでの間に手がホールドに触れていない瞬間があることを予想し、それを「こわい」と思ったのだ。しかし、実際にやって「こわい」と思ったのではない。やろうとして「これはこわそうだ」と思った。「こわそうだ」という気持ちが「できない」をつくりだした。しかし、気を取り直して、イメージした身体の動きをやってみると、思ったよりもこわくなく、左足を新しいホールドに乗せ、その後左手で新しいホールドを掴むことができた。「こわい」という気持ちは、身体の安全を確保するためにあるのだろう。全く恐怖を抱かずになんでもかんでも突き進んで行ったら、本当に危ない目に逢うかもしれない。しかし、少なくともボルダリングジムの、簡単な方から2番目のレベルの課題においては、よっぽどのことがない限り生命の危機というのはないはずだ。やってみる前に「こわい」「できない」という気持ちが生まれていることに気づいたのは私の中では新鮮かつ重要な気づきだったと思う。

壁に向き合い、身体を動かしながら自分の心を知る。改めて感じたボルダリングの面白さだった。しかし、一人で黙々と壁に向かうというのは、なかなか単調というか、それ自体にも鍛錬が必要だと感じる。そういう意味では、そのプロセスを通じて精神的に大いに鍛えられると言ってもいいかもしれない。だが、他者と言葉を交わしながら行うボルダリングというのも学びと楽しみがどちらも大きいように思う。できればまた、友人たちとボルダリングを楽しみたい。

気づけば随分とボルダリングのことを書いていた。エネルギーを使ったと思ったが、それがまたエネルギーの生成になっているということを感じる。今日ボルダリングに行ったのは、昨晩、カリフォルニア大学が行なった、Life Changing Programについての動画を見て、肉体と精神の状態を向上させるための取り組みを集中して6週間ほど行ってみたいと思ったことにも起因する。実験結果として興味深かったのは、複数の取り組みを並行して行うことで、肉体および精神の変化が大きく起こったということだ。もちろんそのためには一定以上の時間を割かなければならないが今のライフスタイルの中ならそれができるだろうし、執筆活動を含めて、もっと活動のためのエネルギーを向上させていきたいので、集中力や想像力を高めるために時間を使うというのは将来に対する投資でもあると思う。継続させるポイントは、週に3回行うといいという「激しい運動」を、屋内でもできるものを設定できるかどうかだ。動画ではHIITという筋トレの方法が紹介されていたが、それは屋内でもできるものなのか分からないため、この後、夕食後に調べてみたい。2019.11.3 Sun 18:00 Den Haag