431. 言葉だけで表現をするということ

17時を過ぎたところだが、もう夕食を済ませている。つい数日前、サマータイムが終わる前までであれば、今は18時すぎだ。身体には、自分が思っている以上に刻み込まれているリズムがあるのかもしれない。外的な基準よりも、自分自身の感覚に耳を澄ませていきたい。

夕食を早く終えることは、日記を書くにあたっても良い影響があるのではないかと思っている。この時間ならまだ外は明るく、日々その色や葉の付き具合を変えていく中庭の木々を眺めることができる。

庭の木は、数日前よりも明らかに葉を落としている。ただ、それにしては木の下にあるガーデンハウスの屋根に積もる葉っぱは少ない。あそこには確かもっと葉が散らばっていたはずだ。それが今は、掃き集められたように、Yの字の形に茶色になり乾燥した葉が積もっている。あれは風の仕業か。

茶色と書くとき、いつも違和感がある。私にとって茶は、飲むお茶の茶であり、それは煎茶の色なのだ。焙じ茶など、確かにあの落ち葉の色と重なる色の茶もあるが、私にとっての茶色はもっと緑色で初々しい。枯葉色は枯葉色なのだ。自分が見ている色というのを、その色を持ってして以外にどうやって表現することができるだろうか。言葉というのは、何かを伝えられるようで、時に何も伝えることができないのだとも思う。

今日は朝7時から打ち合わせに参加した。これまでなら8時からに設定していたものを、今週までまだサマータイムが続いていると思っていたときに約束をしたものだった。7時の開始に合わせて思考や声の具合を調整するのは楽ではないが、打ち合わせが終わってもなお午前中の時間が残っているというのはなんだか得をしたというか、晴れがましい気分だ。ほどよく意識を活性化させる活動というのは、他者とのやりとりがない日であっても、1日のはじめに持ってくると良いのかもしれない。

夕食後には、久しぶりに夏に参加していたインテグラル理論のオンラインゼミナールの補助教材の録音音声をいくつか聴いた。2ヶ月ほど前のことが、もうだいぶ昔のことのように感じるとともに、自分にとって、毎週様々なバックグラウンドの方とご一緒できる場というのが、そして学びの素材がこんなにも散りばめられた場というのがいかに重要だったかということを実感した。同時に、音声というのには何か不思議な力があることも感じた。視覚的な情報がない分、頭の中に余白ができて、どんどんとそれが押し広げられるようなそんな感覚だ。YouTubeの更新が止まっているが、その理由の一つとして、自分自身が、より、静けさを含んだものを世の中に置いていきたいという想いが関係しているだろう。視覚情報は人の心を強く惹きつける。人の心に何かを刻む力がある。しかしそれがすでに世の中には溢れ過ぎてはいないだろうか。今、人の心に必要なのは、外から来る情報ではなく、自分自身との出会いなのではないか。できれば自分は、人の心に余白をつくるような働きかけをしたい。それをYouTubeという枠組みの中でやることはある意味チャレンジなのかもしれないが、何か良い形で世の中への架け橋として活用していければと思っている。話したいことはいくつか浮かんでいる。できれば近日中には一つ二つ、これまでとは違った形で更新をしたい。

こうして書いていると、いかに自分自身が静けさを求めているかということを感じる。ワードの上部に表示される案内さえなくてもいいのにと思うが、これはもう少し鍛錬を積めば、気にならなくなるものなのだろうか。結局のところ、静けさを求めているのは誰より私自身なのだ。

しかし、日本に比べると随分と静かな環境なのに、なぜ私はそんなにも静けさを求めるのだろうか。そんなにも頭や心の中にはノイズが渦巻いているのだろうか。それは普段、なかなか口にすることのない不安や恐れ、もどかしさのようなものの声なのかもしれない。できればパソコンを閉じて、数日間、もっと深く心の声を聴きたいという想いもあるし、心の声は心の声を聴こうとすることを通じては聴こえてはこないのではないかという気もしている。

外が明るく、まだエネルギーも残っているうちにパソコンに向かうと、久しぶりにたくさんの言葉が出てきた。頭から出る言葉ではなく、身体から出る言葉を、もっともっと、置いていきたい。2019.10.29 Wed 17:36 Den Haag