425. 変わらないように見えるもの

こんなにもゆっくりと、夜は明けていたのかと、まだ暗い8時頃、ふと思った。それから15分、空は青みを帯びてきているが、明るさと暗さ、どちらを多く含んでいるかというと暗さだ。薄暗い。ほの明るい。そんな言葉が浮かんでくる。ここのところ、何かいつもこの時間、バタバタと目の前のこと、家の中のことに追われていたような気がする。書斎の窓から外を見て日記を書く時間を取っていたが、それ以降は、特にリビングの窓からは外を眺めることはあまりなかったかもしれない。それは、書斎の窓からは中庭が見え、季節の移り変わりを感じることができるのに対して、リビングの窓からはトラムの通る通りをはさんで向かいの家と、その間にある街路樹が見えるものの、そこにある景色があまり変わらないように見えていたからかもしれない。

しかし、本当にそうだろうか。確かに大きな街路樹は常緑樹なのか今でも緑色の小さな葉をたくさん蓄えている。中庭に生えている木の葉がどんどんと落ちていっているように車や人が通る通りにある木の葉が落ちていったら大変だろう。それでもよく見ると、葉っぱの一部は黄色に変わっているところもある。首を伸ばしてさらに他の木を覗いてみると、木の片側の葉が黄色になっているものもある。それはまだ幹が細く、比較的若い木のようだ。

代わり映えがしないと思っていたものも、少しずつ、少しずつ、変化している。

人間も、日々細胞が生まれ変わっている。脳の細胞も、40%が1ヶ月間のあいだに入れ替わり、遅いものでも1年の間に入れ替わるという。1年経ったらもう、別人のようなものだ。

「人は変わらない」「他人は変えられない」と言うことがある。

「他者が無理やり外側から変えることはできない」という意味では正しいと言うことができるかもしれない。しかし、人は、日々、変わっているのだ。少なくとも細胞の一つ一つは更新されている。もし全く変わらないように見えるのであればそれは、変わらないでいい環境が用意されているからではないだろうか。環境というのは、物理的な環境もあれば、制度や仕組み、文化や慣習、そして他者の関わりというのも含まれる。人を直接変えることはできないが、人が環境に適応する生き物だと考えると、環境が変わることで、ゆるやかにでも変化していくのではないか。もちろんそれはとてもゆっくりで、時に行きつ戻りつに見えるかもしれない。

人間が、機械のように、入力と出力が一対一だと思われるようになったのはいつの頃からか。ある特定の入力をすれば、ある特定の成長をすると思われるようになったのはいつの頃からか。全体の一部とみなされ、機械のように、取り替えればいいものだと思われるようになったのはいつの頃からか。

今日も取り組みたいことはたくさんある。だけれども、こうして、立ち現れる思考や想いにも、足を止めていきたい。2019.10.26 Sat 8:38 Den Haag

426. つくること、壊すこと

書斎の窓から見える空には、茶が溶け込んでいる。静かに、今日も1日が降りてゆく。

世界から色がなくなると、こうも、外的なものに刺激されて心の中に浮かび上がるものがなくなるものかと思う。しかし心の中に何もないわけがない。それだけ外的な刺激をもとに内的な感覚を手繰り寄せることに慣れてしまっているのだろうか。目を閉じて、ゆっくりと息を吐き、心の声を聴く。

ここ数日、想いとしてはパソコンを開いて作業をする時間はできるだけ少なくし、心の中から湧き上がる考えや感覚を、手書きという形で整理したいと思っていた。しかし数日前にウェブサイトの変更を始めたところ、思いの外そちらに熱中してしまい、いつもよりもさらにパソコンに向き合っている数日間を過ごした。そのうち1日は夕食を食べることさえ忘れていた。

1日の中でのスケジュールは緩やかに規則正しくありたいと思ってきた。しかしそれがなかなか上手くいかない。自分は思ったより凝り性というか、目の前のことに集中する傾向があるようだ。今さら、と、周囲の人は言うかもしれない。幼い頃からきっとそんな性質があっただろう。これだということには集中しないではいられず、スイッチが入ると何時間でもそれに取り組むことができる。

そんなにも集中したいことがあるのなら気が済むまでやってみるといい。ここ数日でやっとそう思えるようになってきた。思い返せばこれまでは外側から何かを学ぶことが多かった。日本にいるときもコーチングやコミュニケーションに関する学びは何かしら続けており、それは欧州に渡った後も変わらなかった。今はオンラインで参加できる学びの場もたくさんあり、それはとてもありがたい。最近でも気になっていた領域で新たな学びを始めようか迷ったのだが、結局それは取り組まないことにした。今自分が向き合うべきなのはスキルや知識を増やすことではないと改めて実感したのだ。「知っていること」を増やすよりも、むしろ「知っている」と思っていることを手放していく。結局のところそれが学びなのかもしれないが、今の自分自身に必要な学びがあるとすると、「これまでの学びによって身につけてきたものの見方や考え方を自覚する」ということ、そして「その中から、真に心が望むこと、自分自身の美意識にあったものを選択し直す」ということだろう。

なぜだか分からないが今、美意識というのは大切な感覚ではないかという気がしてきている。ここで言う美意識とは単に、造形や目に見えるものに対する基準ではない。あえて見えるものや感じるもので表現するならば、粒子の細かさや風通しの良さ、清々しさのようなものだ。自分にとっての美しさの基準を認識し、それを表現していくことが次に取り組むことなのではないかという気がしている。それは、繰り返し、つくっては壊し、つくっては壊し、その繰り返しの中で磨かれていくだろう。今つくっているものも、いつか壊すことになる。だからこそ、今目の前に立ち現れていることには刹那の美しさがあるのだと思う。

言葉で表現できるものの限界を日々感じている。それも、言葉に対する美意識を耕していくことにつながっていくのだろう。2019.10.26 Sat 20:20 Den Haag