421. 秋という季節についての認知が更新されるとき

見たことのない白い猫が、ガーデンハウスの屋根の上をトコトコと歩いてきた。尻尾は黒っぽいトラ柄で背中にも、スヌーピーのように、丸いブチがある。ころんとした胴体が、なんだか愛らしい。

窓の外からは、ガランガランと、鐘の音が聞こえる。時折聞こえてくる鐘の音が何を示しているのかいまだに分からない。手のひらに乗りそうな大きさの茶色がかった鳥が何羽も、葡萄の実を啄ばんでいる。持っている中で一番あたたかい洋服を着込まないといけないくらいに、家の中は冷えているが、窓の外には、紛れもなく秋がきている。

9月に入って以降、あっという間に気温が下がり、10月には「これはもう、秋ではなくて冬になったのではないか」と思っていた。そもそも「秋」とは何だったのかさえ分からなくなっていた。しかし、今、「これが秋なのだ」という実感がある。

と、驚くほどたくさんの小さな鳥たちが、葡萄の実の成る蔓の絡む庭の棚に舞い降りた。ここに葡萄の実がなっているということを、聞きつけてやってきたのだろうか。こんなにもたくさんの鳥が庭に訪れていることをこれまでに見たことがない。それはただ、私がそれに気づいていなかっただけなのだろうか。そういえば、ここのところ随分とたくさんの葉が、日々、ガーデンハウスの屋根に積もっていくと思っていた。「ああ、こんなにも早く葉は落ちていくのか」と思っていたが、庭にやってくる鳥たちがその羽ばたきで枝葉を揺らしていたのかもしれない。鳥たちは今度は隣の家の1階の屋根に移り、屋根の表面をしきりに突いている。ここから見ると、苔が生えているように見える一帯だ。と、また一斉に飛び上がった。どこかに明確な司令者がいるのではなく、相互に影響を与え合う有機的なシステムのように動くその様は、なぜだかハーグ在住のアーティスト、テオ・ヤンセンの作る「ビーチビースト」を思い起こさせる。いつかハーグの海で、実際に風を受けて動くビーチビーストを見てみたい。

そうだ、「秋」というのはどういう季節なのかを考えていたのだった。私が今、新たに認識した秋、それは「生命がバトンを渡していく季節」だ。夏に上向きだった生命のエネルギーは、その向きを変えた。木々は葉を落としながら、エネルギーを中心にある幹の部分に、そして足元の土に蓄えていく。生命エネルギーの向かう方向が変わる・何か切り替えのようなものが起こるのが秋だったのだ。どんなに気温が下がっても、今思えば9月はまだその切り替えが起こっていなかったように思う。切り替えが起こり始める準備は始まっていたかもしれない。視覚や聴覚、体感覚で感じてきた「季節」から、エネルギーの向きで感じる「季節」へと、今、「季節」という言葉の概念が書き換わろうとしている。目に見えるもの、聞こえてくるもの、体で感じることは、その結果にすぎないのだ。

自分自身はどうだろう。この2ヶ月で、確かにエネルギーの向きは変わったように思う。周りの空間に手を伸ばし、葉を伸ばし、そして今、また中心の部分に引き戻しているような、そんな流れの中にいる。この自然の呼吸と一体であれたら、気持ちよく一年を過ごすことができるのかもしれない。

ガーデンハウスの屋根には今度は黒猫がやってきた。トコトコと軽やかに積もった落ち葉の上を歩く姿は、相変わらず幼さを残している。しかしあの猫にも今、これまでとは違うエネルギーの流れが生まれているのかもしれない。

こうして毎日窓の外を眺めていたら、折り重なる季節の中でも「秋の終わり」に気づくのだろうか。定点から同じ景色を眺めることが繊細な感覚と出会うことをもたらしてくれるのだということに気づく。そんな書斎でのひとときだった。2019.10.23 Wed 10:29 Den Haag