414. 死に向かい生きる人の夢

上の階の住人が動き出す音で目が覚めた。それよりずっと前から夢を見ていて、もう意識と身体は起き出すことを待っていたのだと思う。

今朝見た夢は、明らかに、昨晩最後に取り入れた情報が影響しているというのは、夢を見ているそばから薄々気づいていたことかもしれない。

夢の中で、私はかつて文壇を賑わせた女性の作家の家を訪ねていた。訪ねることになった経緯は覚えていない。家に入ると、薄暗い部屋の中で、小柄で線が細く、歳を取っているが、実際の年齢よりも随分幼く見える女性が布団の上に座っており、その周りに小学生くらいの女の子が数人がいた。そのときには私は作家の女性が何らかの病気にかかっており、自宅で闘病生活をしているということを受け取った。女の子たちは、「女性は3年生のときの先生だった」と言う。

それから、何かしらのやりとりがあって女性のために女の子たちと買い出しにいくことにした。真っ白な壁に蛍光灯の眩しいコンビニのような商店のような店に入り、目線の高さくらいの棚の間を歩きながら、女性にはどんな食べ物がいいのかということをあれこれ考えているうちに、店の中央にあるレジに5,6人の人が列をつくった。

外に出ると、何かお祭りのようなものをやっているようで、アイドルグループの歌うようなポップな歌が商店街に流れていた。音の方に目を向けると、賑わう人々の中に母の姿があることを見つけた。お祭りに合わせてか、なぜかこれまで見たことのない膝上丈のひらひらとしたスカートを履いている。母に声をかけ、一言二言言葉を交わし、作家の女性の家に向かった。

家につくと、玄関の周辺に40代か50代くらいの数人の男性がいた。どうやら女性の書いたものの読者であり、女性を訪ねてきたようだ。しかし女性はその人たちと言葉を交わすつもりはないようだ。以前とはすっかり変わってしまった姿を見せることを望む人は少ないだろうと思った。

玄関周辺からそろそろと家の中を覗く訪問者をそのままにして、女の子たちと女性のそばに行った。

その後はなぜか、海に行こうという話になり、家を出たあたりで、もう意識は目覚める準備に入っていた。

昨晩私は、Kindleで読んでいた本を読み終えたものの、胃のあたりが少しもたれている感じを感じ、すぐに寝付くことができなかったため、kindleで出てきた「おすすめの本」の中から、河合隼雄さんの本を辿り、そこから小川洋子さんという『博士の愛した数式』という本を書いた方と河合隼雄さんの対談に行き着いた。河合隼雄さんと小川洋子さんの対話集『生きるとは、自分の物語をつくること』は、様々な方と対話を行った河合隼雄さんの、最後の対話だと言う。中身は読んでいないが、私の意識と無意識はそこから、死や、人が変化していくことについて考えたのだろう。私が見た女性の姿は、見知らぬどこかの誰かの、生きる姿、死に向かう姿なのかもしれない。起きたときに、それが夢だと分かっていながら、どうもこれはただ頭の中の幻想の世界というだけではないぞという気がしていた。もしかするとそれは自分の未来の姿なのかもしれない。

全てが終息に向かっていることに気づいたとき、その感覚の中でどう生きるか。「あのとき夢が教えていたことはこういうことだったのだ」と、いつか実感を持って感じることになるだろう。2019.10.18 Fri 8:10 Den Haag

415. 静けさが教えてくれること

ああ、今日も日が暮れた。と思ったが、よく考えると今日はお日さまの姿を見ていないかもしれない。いや、今日に限らず、ここのところずっと、だろうか。しかし、広がる雲の向こうからも今日も世界を照らす光は降り注ぎ、生命の輝きがそこにあった。

午前中、いくつかの作業を終え、オーガニックスーパーまで買い物に行く途中、いつも通る住宅街の裏道に入ろうとして息を飲んだ。落ち葉が歩道に降り積もっていた。前回その道を通ったときは、こんな様子ではなかった。思ったよりも足早に季節が巡っているのか、それとも私がよっぽど出不精だったのか。

スーパーに並んでいた秋の食材についても書きたいところだが、今私の目には、中庭の向こうに見える家々の明かりが飛び込んできている。向かいの家々の、窓で言うと10枚分以上に、オレンジ色の明かりが灯っている。(そのうちいくつかは、一つの家に複数の窓がある場合もある。)こんなにも家々の明かりが灯っていることを見たことがあっただろうか。金曜の夕方はいつもこんな様子だったのを見逃していただけなのか。朝も日中も、オランダの人々は驚くほど明かりをつけない。リビング側のトラムが通る通りの向こうの家々の窓の中で明かりが灯っているのを見たことがあるのは1,2箇所くらいだ。それが今、中庭の向こうのそれぞれの家の窓には明かりが灯り、それぞれに人の気配がしている。

日の長い夏の中庭の雰囲気も好きだったが、寒くなってからのこの、人々の暮らしに明かりが灯る様も好きかもしれない。そこにあるのは、「足るを知る」という空気だ。おのおのが静かに、そこにある自分の暮らしを、そのままに喜び、味わっている。その一つ一つがかけがえのないもので、そこに優劣や貴賎など存在しない。

そんな風に今自分が感じるということは、自分自身が満ち足りているということだろうか。そうだろう。大好きだと思える仕事があり、あたたかい家がある。数は少ないが、心許せる友人がいて、たまに、誰かが訪ねて来て、たまに誰かから手紙が届く。これらは全て、私を満たしてくれているものだが、それに気づかせてくれるのは静けさだ。心の静けさがあること。これ以上に満ち足りた感覚をもたらしてくれることはないかもしれない。そして今なら、どんな状況や環境にあっても、心の静けさを感じることができるかもしれない。

今日、オーガニックスーパーでは柿が売られていた。少し前に喉の調子を崩したときに柿が喉にいいということでいくつかのスーパーを見てまわったものの見つけることができなかった。あれはまだ9月だったか。気温はすでに私の知る冬のものだが、この国はまだ秋で、柿は秋の果物ということになるのだろうか。試しに1つと思い、他の野菜とともにレジを通そうとすると柿のレジ情報がまだ入力されていなかったようで、レジのスタッフが他のスタッフを呼んだ。やってきたスタッフは、訪ねられた質問に「カキフルーツ」と答えたのが分かった。柿はどうやら、オランダでもカキらしい。結局そのカキは金額を打ち込まれることなく私の手に渡された。

種がなく、ほどよい甘さと硬さ。私にとってこれは、「懐かしい日本の味」の一つだ。これから毎年この時期に柿を食べたら、いつしか柿もオランダの味になるのだろうか。

ふわふわと今ここでないときに手を伸ばすのではなく、しっかりと足の裏の地面の感覚を感じる。

そんな感覚の暮らしが、人生の中で、ようやく始まろうとしている。2019.10.18 Fri 19:41 Den Haag