416. 散りゆく秋の中で

庭の木は、上の方から季節が変わってきている。ところどころ赤銅色(しゃくどういろ)に染まった葉を見ながらそう思った。主人のいない庭の植物たちは、夏のように我先にと空いたスペースに葉や枝を伸ばしたりはしない。秋は、”気“が下の方に降りていく季節だと言うが、植物たちのエネルギーも、地の中へ、下へ下へと蓄えられているのだろう。

鳥の鳴き声も、春から夏にかけて聞こえていたハリのある声ではなく、そっと置かれるように柔らかい。日曜の朝にふさわしい穏やかさだと思うのは人間だけか。そもそも「春」も「夏」も、それが何を示すか、感覚を超える言葉は見つからず、結局のところ「春」や「夏」と、分かったように言うことになる。

にわかに、鐘の音が聞こえてきた。この街で教会の鳴るのは珍しい。

ドイツで暮らしているときは、どこにいても一時間に一度、鐘の音が聞こえていた。それがもう、遠い昔のように思える。あのときはあのときで、「暮らしている実感」というのがあったが、今はそれを、「そういうことがあった」という記憶としてしか思い出せない。「今この瞬間」として強烈に体験できることは「今この瞬間」のことだけなのだ。

一昨日、昨日と夜中のセッションがあったため、起き出す時間がいつもより随分と遅くなっている。夜中のセッションというのは正直なところ、左脳的思考能力は低下しているが、その分、余計な思考が立ち現れず、外の世界の静けさと暗さも相まって宙のような状態でいられているのではないかと思う。このところ、クライアントさんたちが、「セッションで話しをしていると映像が見えてくる」ということを異口同音に言われていた。何か、宙のような状態が、その人の中にあるビジョンを明らかにする作用があるのかもしれない。

今、自分自身が目指す方向とその方法は見えてきている。あとは日々の行いを静かに為していくだけだ。もっと、日々言葉を紡ぎたいという思いもある。言葉になることを待っている星の欠片が、たくさん浮かんでいるのだ。それを引き寄せようとすると、自分自身の言葉の世界観が、それらの本来の世界観に及ばなくて、なんだかとても、そっけなく、もしくは世俗的なものになってしまう感じがして、悔しさやもどかしさも覚える。しかし、言葉の世界というのは自分で育てていくしかないだろう。拙くも言葉にし、言葉の限界を思い知ることで、言葉の世界はきめ細かく深遠なものになっていくのだ

今日は、見慣れない黒くて小さな鳥が、庭の葡萄の実を啄んでいる。2019.10.20 Sun 10:35 Den Haag

417. 試み

書斎に来ると、昼前に開けた窓がそのままになっていた。日本の窓とは違う斜めに窓の一部を開けるタイプなので、そう大きくは開いていないものの、一日開けっ放していたので冷たい外気が吹き込んでいたかもしれない。しかしそれ以上に窓の下についた暖房が効いていたのか、小さな書斎で寒さを感じることはない。

窓の外に見える、暮れかけた空は何やら不穏な色をしている。広がる雲に紅のような色が薄く混ざっているからだろうか。それとも、自覚はないが、心の中に何かしらのざわめきがあるのだろうか。

今日はパソコンを使った作業を長くしていたが、いい具合の身体の疲れを感じる。それは作業のほとんどを立って行っていたことに由来するだろう。改めて言葉にするまでもなく、私は寒さに弱く、かなりの出不精だ。少しでも冷たい風が吹こうものならそれを理由に家にこもる。そのこと自体はもう、「そういうものだ」と開き直ってはいるものの、もう少し運動をした方がいいのだろうということはずっとテーマになっている。今日のように多少曇っている日も、少しだけ足を伸ばして近くの森を散歩すれば気持ちいいだろうと思うものの、そこまでの行き道と帰り道を思うと、やはり足は近所の商店街より外にはなかなか向かない。であれば、家の中で、天気や気温に左右されず取り組めることをすればいいだろうというのが今のところの結論だ。というわけで、それがなぜ今日からなのかは分からないけれど、今日から(「今日から」というほど続くかは分からないけれど)、立って仕事をしてみることにした。

以前、東京で企業に勤めていたときも、座りっぱなしは身体によくないという情報に出会い、立って仕事をしていたことがある。そういえば、コーチングセッションのときも、セッションブースの中で立ってコーチングを行なっていたことがあったように思う。会社だと、立って仕事をしていると奇怪な目で見られてしまうが、自宅だとそういう心配もない。暖炉風の室内の装飾を机がわりにすると、これが思った以上にちょうど良い高さで、苦もなく、むしろ集中して作業を続けることができた。

そして今、ふくらはぎと太ももには少し疲労を感じる。これが「ほどよい」具合なのかはまだ分からないが、思考の疲労だけでなく身体的な疲労をほどほどに感じるのは良いことなのではという気はしている。

そこまでして私が今、自分自身をより良い状態にしたいのは、もっと言葉を積み重ねていきたいからだ。まだ、自分の言葉が降りてきているという感覚はない。表現したいことは、宙のあちこちに散らばっている。それらを繋ぎ合わせて、どうにかこうにか布をつくろうとしているという感じだが、それが与えられた感覚を十分に表現できているという感じではない。それでも、書き続けたいという気持ちはある。だから、どうにかこうにか、時には長く、時には短く、時には固く、時には柔らかく、とにかく表現することを続けている。どんなやり方が正しいのかは分からないが、とにかく、書き続けるのだ。

考えたいことはたくさんある。読みたいものもたくさんある。
しかし、何よりも、澄んだ自分になること、そして感じることを大切にしていきたい。
2019.10.20 Sun 19:32 Den Haag