412. 回転するエネルギー

身体の中心部があたたかいのは、シャワーを浴びたからか、太陽礼拝のポーズで身体を動かしたからか、白湯を飲んだからか、冬物のセーターを着込んでいるからか。いずれにしろエネルギーの循環が始まって、身体が一日を始めようとしている。

透明なオレンジ色に染まる南の空を眺めながら、エネルギーには回転があるのではないかということをふと思った。終わりと始まり。それは、それぞれ違う方向への回転に思える。それは単に、昨晩一日を終えようとしているときとエネルギーの流れの方向が違うことを感じるだけなのだが。身体の中もしくは外には常に回転するエネルギーのようなものがあるが、一方向の回転だけがあるのではなく、逆方向の回転も常に存在しながら、それぞれの強さが一日の中、一ヶ月の中、一年の中、一生の中で違うのではないかということをイメージしている。生まれたばかりの赤ちゃんと、老齢の人では、エネルギーの回転が強い方向が違うような気がするのだ。

暗闇の中で屋根の上に飛び出た部分のシルエットしか分からない中庭の木々や草花も、それぞれに独自のエネルギーの回転を持っているのだろうか。もしかしたら、スーパーで野菜を選ぶときも、その回転の方向と強さのようなものを感じているのかもしれない。そう思うと買い物も人との出会いと同じだという気がしてくる。目の前にあるものから何を感じ、何を学ぶか。

そう言えば最近、静かにお茶を淹れる時間を持てていなかった。お客さんが来たときは、必ず、お茶を淹れてゆっくりと話をする。なのに、自分一人だとどうだろう。客人がいないとゆっくりとお茶を淹れることはできないのか。そうではない。自分は、主人であり客人でもある。日々、家の中を整えるのも、まずは自分自身という客人を迎え入れ、さらに、その先にいる客人を迎え入れるためだ。物理的に人が訪れなくとも、である。自分を迎え入れることができているからこそ、他者を迎え入れることができるのだろう。

そのために、もう少しだけ南の空を眺めて、去り行く闇と、来たる光の声に耳を傾け、そろそろと一日を始めたい。2019.10.17 Thu 6:40 Den Haag

413. 夕焼けに思う、あの頃の自分のこと

中庭の大きな木を眺めていると、19時を告げる鐘の音のアラームが鳴った。
アラームを止め、書斎に戻る。葡萄の蔓から伸びた、だいぶ茶色くなった葉っぱがふわふわと揺れるのを眺める。蔓にはまだ、随分とたくさんの葡萄の房がついている。どうやら果物は、私が思うよりもずっと、自然に落ちるのには時間がかかるようだ。芽が出ること、葉が茂ること、実がなること。何事も、自然の中では、思ったよりずっとずっと、ゆっくりなのかもしれない。

そういえば先日オーガニックスーパーで購入したベビーアボガトの一つは、熟す前にしおれてしまった。緑色のまだ固いアボガドは、待ちさえすれば勝手に熟して柔らかくなるのだと思っていた。しかし、緑から黒緑に色が変わることなく、生気を失っていってしまったのだった。置いておくだけで熟さないものもあるのだろうか。

人間はどうだろう。放っておいてもいつか熟すときがやってくるのだろうか。葡萄の房のように、日々太陽の光を浴び、風を受け、鳥の声を聞き、自然なリズムに任せて、その実が落ちることを待つことができたら…。アボガドのように、地から切り離されてしまったものは、その時点で、自然の流れからも切り離されてしまうのかもしれない。

そんなことを考えているうちに、庭の木の枝についた葉の色が見えなくなるほどに窓の外は暗くなった。まだ一日が閉じようとしてる実感が薄いのは、上の階から洗濯機を回す音が聞こえてくるからだろう。アナさんの後に入居した上の部屋の住人とはまだ一度も顔を合わせていない。しかし、特段、警戒心のようなものも湧かないのは、オーナーのヤンさんの知り合いだという安心感があるからだろうか。それにしても、洗濯機の音はよく響く。これは、日本から来た友人たちが夜中に洗濯機を回したときに階下に住むヤンさんが苦言を呈しに来たのも納得だ。

どこかで、夕焼けを見ることはできるだろうかということがふと浮かんできた。東京に暮らしていたときは西向きの大きな窓がある家に住んでいたので、週末はよく、沈む夕日と、オレンジ色に染まる空をぼーっと眺めていた。光が引いていく家の中で、ひとりぼっちで宙に浮かぶような感覚を毎週のように感じていた。もしあの頃の自分が日記を書いていたなら、あのときの感覚を何と表現するだろう。今私が夕焼けを眺めたいのは、あの頃とは違う感覚を抱く自分を実感したいのだ。異国に一人。あの頃よりもずっと環境は孤独だけれど、寂しさよりももっとあたたかな何かに包まれていると実感したいのだ。それはもう、日々の中で実感をしていることなのだけれど、それでも間違いないと、確かめたいのだ。

30代の前半を過ごした東京という場所は、全てがある場所だった。それまで暮らしていた福岡に全てを置いてきたと思ったけれど、両手はすぐにいっぱいになった。それでも心が本当に満ち足りたことはあっただろうか。出会った人と本当に深く心を交わすことができていただろうか。

そんな中でも心に静けさを与えてくれたあの部屋に今暮らしている人は、どんなことを感じているんだろうか。

たくさんの分かれ道がある中で偶然たどり着いた場所だとも言えるし、ここに来ることになっていたのだとも言える。全ては一つだったのだと言える日が来るまでは、まだ少し時間がかかりそうだ。2019.10.17 Thu 19:42 Den Haag