408. 開いたウィンドウを閉じる朝

パソコンを開くと、いつものスタンバイ状態ではなく電源が切れた状態になっていた。ここのところ電池の減りが早いようにも感じるが、リビングや書斎でバソコンを使う際は充電をしていないことも多いためにそう感じるのだろうか。電源が落ちたときの定番となっている「日記を書いているワードのファイルが自動保存されていたものが大量に開いている状態」になっていた。数え切れないほどのウィンドウが開く感じは視覚的に心地いいものではないが、最新のファイルがすぐに見つかったことから、以前よりも落ち着いた気持ちで淡々とウィンドウを閉じることができた。

Apple社製のMac Bookを使用しているため、ワードでなくPagesというアプリケーションを用いることもでき、そちらであれば最新のものだけが自動保存されるため、電が落ちたときも大量のウィンドウが開くということがなく、また、見た目もスッキリして気持ちがいいため、日記の執筆をPagesに直接行いたいとこだ。しかしなぜだかPagesは時折動作が遅くなることがあり、タイピングのスピードよりも随分とゆっくり文字が表示されるため、テンポよく執筆を行いたいときにはそのタイムラグがなかなかもどかしい。

今日はこのあと予定が続いているため、気持ちが前に向かっているようだ。一旦はパソコンを閉じ、家の中と声と整えることにする。2019.10.15 Tue 7:27 Den Haag

409. 蜂の死、自分の死

書斎においてある小さな机の向きを変えると、書棚の影になっていた部分に蜂の死骸が転がっていた。空を飛び人間に恐れを感じさせることさえできる蜂だが、ひとたび外界との境目が閉じられてしまうと、そこから出ることはできない。自由とは、今いる世界を飛び回ることができることではなく、自ら今いる世界の扉を開き、外の世界に飛び出すことができることなのだ。

しかし、蜂の命が閉じたかというとそうではないのかもしれない。個体としての、一匹の蜂は、もう動かないけれど、種としての蜂は引き続きこの世界を自由に飛び回っている。ここに動かない蜂がいるからと言って、種は何かを失った訳ではない。それとも、どんな種の中にも、絶対的な個との関係性というのが存在しているのだろうか。そんなことを、じわじわと暗闇が染み込む小さな書斎の中で考えている。

今日は何か、エネルギーの流れが変わったことを感じた。それは午前中のコーチングセッションを終えたときのことだった。始まる前よりもエネルギーが増えている。それは、体調を崩す前に、その手応えを感じていたエネルギーの生成機関としての自分自身の状態にも近い。

何がその転換をもたらしたのだろうかと振り返ってみる。食事やその他の活動など、日々為すことの積み重ねとも言える。しかし敢えてこれだと言うなら、コーチングセッション中のクライアントとの関係やお互いの在り方が引き金になっていたのだと思う。そこには、どちらがコーチでどちらがクライアントというのではない、学び合い、共創するような関係があった。それは、クライアントが私からの質問に頼ることなく、自ら探索をし、そこから共に学ぶという現象だとも言える。そこで行われる、心象風景のキャッチボールのようなものは、何とも小気味好い音を立てる。

いや、それは今回に限ったことではない。私が今まで気づいていなかっただけなのだ。誰もが、その人が持つ、独自の色のボールを投げ、それが独自の音色を奏でる。それに、自分自身が気づくことができるかというそれだけなのだと思う。

では今日、さらにその引き金となったものが何だったかというと、その後に読んだ本が大きいだろう。時系列の順番としては、セッションが先で、その後に本を読んだのだが、そこにある言葉や世界観が、読むと決めたときにもう既に意識の中に流れ込んできていたのだと思う。その本は、その時が来るのをずっと待っていたのだ。

こうして考えると、因果関係というのは、あってないようなものだろう。自分自身の準備が整っているかどうか、その一点に尽きるのではないか。準備が整うということは、一つの生が終わりを迎えることでもある。先ほど転がっていた蜂のように、ある世界から出られなくて終わりを迎えた自分がいて、そして、新たな世界の扉を開く自分がいる。人間には扉を開く自由があるではなく、やはりその前には一度死が訪れるのだ。

こうして、一日の終わりに日記を書くことの意味がようやく分かったように思う。今日を終え、今日の世界を終え、生を終え、それで初めて、明日の命が生まれてくるのだろう。きちんと今日の死を迎えるのに、オランダの、小さな書斎の、この静けさはちょうど良い。このまま暗闇に溶けて、今日の命を終えていくことにする。2019.10.15 Tue 19:28 Den Haag