407. 絵を描くということ、絵を見るということ

南西の空の一部を照らしていたオレンジ色のひかりが、南からさらに東の空へと広がっていく。これは、私の知る「朝焼け」に近いのだろうか。季節の名前と同じように、既に知っている言葉の持つ質感が更新されていく。

昨日、一昨日と、日本から来ていた知人とハーグと隣街のライデンを観光した。観光と言っても、昨日は雨が降り止まず、お茶や食事をしながらゆっくりと話をしていただけだが、昨日は雨が上がり、気温も上がり、歩きながら街の雰囲気を味わうことができた(はずだ)。これまで何人かの知人や友人たちがハーグを訪ねてくれたが、そういえば一緒にハーグ内を観光することはほとんどなかった。一人で色々なものを見て、感じて、溢れそうな言葉を抱えながら帰ってきた人の話を聞く。そんな時間が結構好きだからかもしれない。そんな中、8月にやってきた大学生が、フェルメールの描いた『真珠の耳飾りの少女』のあるマウリハイス美術館に行ったときに、いたく感動して帰ってきて、そこで見た絵のことを目をキラキラさせながら話してくれたことから、マウリハイス美術館には一度行ってみたいと思っていた。ということもあり、せっかくなのでと昨日は散歩の途中でハーグの街の中心部にあるマウリハイス美術館を訪れた。

思った以上にたくさんの絵が展示されていた中で印象的だったものはいくつかあるが、それについては今多くを言葉にせずとも、私の感覚器官の一部となって、世界をさらに彩り鮮やかなものにしてくれるだろう。今書き留めておきたいのは、「絵を描く」という行為について考えたことだ。今はいつでもどこでも気軽に目の前にあるものや出来事を写真として残すことができる。しかし絵というのは、ある瞬間を描くのに、その何倍も、時に気が遠くなるほど時間がかかるはずだ。あたかも一瞬の出来事のように見える絵を、画家はどうやって描き出しているのだろうか。そう思うと、絵画というのは、「対象物が描かれたもの」と言うこともできるし「描いた人の時間を描いたもの」だとも言えるのだと思った。目の前にある人や物、シーンと対峙し、そして、キャンバスと対峙する。そうして描かれたものは、画家の心に映し出される情景でもある。絵画というのは画家の、それまで生きてきた時間、そして絵を描いた時間が織り込まれたものなのだ。そう思うと、一枚一枚の絵は、何か、波動のような、エネルギーのようなものを持っているように思えてくるし、画家の人生が語りかけてくるようにも思う。

こう書きながら、これまで私は絵画を非常に左脳的に見ていたかもしれないという考えが浮かんできた。描かれたものの、一層奥くらいまでしか見ていなかったかもしれない。絵画ともっと、感覚的に、身体全体で向き合ったなら、もっと違うものが見えてくるだろうか。

顔を上げると、向かいの家の1階のリビングに灯った明かりで、ダイニングテーブルの上がぼんやりと照らされている。そこには誰もおらず、時間が止まっているようにも見える。と、その上の部屋の明かりがついた。カモメが連なって南の空に吸い込まれていった。

絵画のような美しい景色が、日々の暮らしの中にある。

鴾色(ときいろ)に染まった空を見上げながら、そんなことを考えている。2019.10.14 Mon 7:38 Den Haag