401. 私が日記を書く理由

 

南の空の低い位置に、青みがかった光を放ちながら瞬く星が見えた。今はもう、やってきた雲の下にその輝きが薄れている。闇というほどには深くなく、一日は今日も始まろうとしている。

昨晩の日記で、日記の執筆を始めたときからつけている通し番号が400になった。始めの日記を執筆したのが今年の312日となっているから、それからちょうど8ヶ月が経とうとしている。通し番号が200番になったときにも書いた「私が日記を書く理由」を言葉にしてみたい。200番の日記をあえて読み返さず、今この瞬間の感覚に向き合ってみる。その結果それは200番のものと変わっているかもしれないし、変わっていないかもしれない。

今の私にとって日記を書くということは、まだ言葉になっていないものたちを言葉にしていくという意味を持っている。それは、今日見た景色であったり、今日感じたことであったり。

生け花や煎茶道の稽古をしていると、その静寂の中でたくさんの気づきがある。枝を切り落とす行為から大切なことを思い出したり、跳ねたお湯から、自分の心の状態を知ったりする。師がいれば、稽古のときに交わす言葉は人間にとって大切な言葉を教えてくれるものとなる。それはきっと、師もまたその師から、その師もさらにその師から学んできたことを贈ってくれているからだろう。「道」の稽古とは基本的に自分自身と向き合って行うものだが、そこに生まれてきた言葉や感覚に、さらに少しの光を当ててくれる師の存在というのが、道を深めることを後押ししてくれるのだと思う。

日記を書くという行為は、花を生けたり、お茶を淹れる行為にも似ていると思う。自分なりの作法の中で降りてくるものを待ち、感覚を感じ、それを言葉にしていく。そこに光を当ててくれる師はいないが宇宙が過ごしてきた長い時間の中で見出された大切な法則のようなものを天と地から教えてもらえることがある。日記を書く主体としての私と、日記を読みそこに降りてきたものを添える私が存在し、後者は限りなく無意識や空間に溶け込んだ存在に近い。

言葉になることを待っている小さな光が、人の心の中にも宇宙にもたくさん浮かんでいる。そう思うと、私がこの小さな書斎で置いていく言葉は、誰かの心の中に浮かんでいたものなのかもしれない。たくさんではないが、日々、様々な人と言葉と心を交わし、話さなくても人と人の間を通り抜けるものがあるとすると、私が置く言葉というのはもはや誰から出てきたのか分からない。そこには確かに新しい一日をこれから迎えようとする、もしくは一日を終えようとする私がいるのだけど、そこに他者との明確な境界はない。誰かの想いや、関わり合い、社会の中で「わたし」という存在が生まれているのだ。

この感覚は、これからも持ち続けていたい感覚だ。「わたし」が、この肉体的な「わたしというものの中にある意識のようなもの」だと、感覚がすっかり閉じてしまったとき、「わたし」へのこだわりが、感覚を覆い尽くしてしまうかもしれない。

他者や世界との境界線を曖昧なものにしておくため

それが今私が日記を書く理由だ。自分の眼で見て、自分の耳で聴いて、自分の身体で感じたと思っていることを強烈に表現しながらも同時に疑い、感覚を身体を取り巻く空間にまで拡張させるとともに、日記を公開することで、他者に対してもその感覚を解放する。それは、今日という一日を通じて、宙から降ってきたメッセージを届けることなのかもしれない。「わたしは何者なのか」という問いを抱えながら、「何者かであること」を手放し続けるのが、日記を書くということなのだと、今この瞬間に感じている。2019.10.9 Wed 5:28 Den Haag