399. 一人で向き合うということ

今朝も書斎は冷えている。冷えていると言っても我慢できないほどかと言うとそうでもなくて、ほどよく意識を目覚めさせてくれるくらいだ。そして今朝も、南西の空はうっすらとオレンジ色の光が滲み出している。日の出まではまだ2時間以上あるはずだ。それでも太陽の光は届き始めているということだろうか。

昨日も原稿の執筆を進めたが、当初計画した長さには至っていない。第1章は、コミュニケーションの歴史や近年のコミュニケーションと情報技術の変化から私たちが抱える課題を紐解く流れにしているが、物事の何が原因で何が結果なのかというのは様々な見方ができるということを感じる。今この瞬間から言うと、一つの選択肢を選んだ結果というのは、何か一つのことが起こると決まっているわけではないだろう。今起こっていることが一つの原因から生まれたわけでもない。歴史とはいつも後追いで、単なる意味づけに過ぎないとも言える。原因・結果論ではなく、そんな中にも大きな大河の流れというのはあるはずで、流れを流れとして描いていけたらと思っている。簡単にはいかないということは、既にどこかで読んだことがあるものではないということだ。天と地からやってくる光を言葉に込めていけるように、降りてくる声に耳を傾けたい。

体調不良だったことをもう忘れるほど、調子は良い状態になっている。特別良いというよりも、中庸という感じだ。先日のボルダリングから来る筋肉痛ももう感じない。一人だったために、全体として運動した時間が短く、挑戦した課題の難易度も無理がないくらいだったからだろうか。「ひとりでもいかに挑戦するか」というのは一人で何かに向き合うことの多い、自分自身のテーマかもしれない。一人でスポーツをしてみると、自分でテーマや目標を決めて水泳を続ける母の姿がさらにたくましいものに見えてくるし、その心持ちが知りたくなる。年老いた犬との時間を過ごし、時折、年老いた母親(祖母)に会いにいく母は今、日々どんなことを考えているのだろうか。オランダにも遊びに来てほしいと思っているが、それはもう少し先になるかもしれない。それまで、元気でいてほしい。

中庭には今日も静けさが広がっている。場所を変えて、言葉と向き合う時間を過ごしていくことにする。2019.10.8 Tue 5:48 Den Haag

400. 偽りなく、飾りなく、驕りなく

偽りなく、飾りなく、驕りなく

夕食を食べているときにこの言葉が浮かんできた。それは、今、遅々として進まない書籍の原稿をどうやって書き進めていこうかと考えていることへの回答だったのだと思う。移動の多かった9月を終え、10月に入って、企画している書籍の原稿をようやく書き始めた。朝6時頃からリビングの机に向かっているが、現在までで文字にできたのは1万字余り。1日2,000字にも満たないそのペースは、日々綴っている日記を書くペースよりも格段に遅い。その理由としては、「読者」を想定し、事実関係に基づいた内容になることを重視しているということだと思ってきた。確かに、自分自身と思考回路の全く違う人が読み進めていくことを想定することは重要な視点ではあるだろう。しかし、例えば、より広い読者を想定すること、その人たちに受け入れられることを想定すること、事実をベースにすることを前提とした場合、そもそもそれを私が書く必要があるだろうかということになってくる。

私が「書籍」という形で考えをまとめたいと思った理由は、自分がコーチングセッションで直接ご一緒することができない人たちや、ご一緒していても、その時間が限られている人たちなど、今いる場所から、さらに自ら一歩を踏み出そうとしている人たちがその一歩を踏み出す後押しをしたいという想いからだ。もちろん、「書籍」という形になることで、直接接点を持つ機会がなかった人に見つけてもらえればという考えもある。しかしそれも結局のところ、どうにかこうにか前進をしたいと思っている人たちの力になれたら、いや、本来持っている力を発揮することを後押しできたらという想いがあるからだ。

人生の時間は限られている。仮にこの先、自分自身が最大限のパフォーマンスを発揮するために、1日1セッションを最大とし、週に4セッションを上限とするならば、1ヶ月でご一緒できる方はのべ16人ということになる。1年間でものべ200人にも満たない。脳の機能というのは、何歳くらいまで高い処理能力を発揮することができるのだろう。仮に高い処理能力が発揮できなくなるとしても、その分、感性が発揮できるかもしれない。今携わっていることは、多少形は変えていくにしても、ライフワークとして死ぬまで携わっていきたいことだ。先日、日本のメディアで唯一定期的に見ている「ほぼ日」のサイトで、1938年生まれの、在宅医療に関わる医師のインタビューに出会い、その在り方のようなものに心が強く惹かれた。仮に自分が80歳を過ぎるまで、誰かと心を通わせ対話をすることを続けられるとしたら(心を通わせることは、もしかしたら死の間際までできるのかもしれない)…いや、続けられるとしても、どれくらいの人と、心の底から向き合うことができたと言えるだろうか。私にとって大事なのは人数ではない。その深さだ。心を交わすことは、お互いが今この瞬間に生きているという証だと思っている。これは、この先どんなに人工知能が発達したとしても、人間にしかできないことだと思う。むしろ、それを行わずして生きていると言えるだろうか。多くの人とでなくてもいい、たくさんの回数でなくてもいい、「この人と出会うことができた」と思う瞬間を一瞬でも感じることを、体験する人が増えたら、世界はもう少しだけ、優しくあたたかなものになるのではないかと思っている。そんなささやかな願いに向けて私は言葉を綴るのだ。それがたとえ、多くの人の手に届かなくとも、「書籍」という形にならなくとも、今の私が取り組みたいこと、やり遂げたいことなのだ。

原稿の第1章を書き進めようとしていた私は、どこかきちんとしたことを書くことに囚われていたと思う。しかし、自分の外側からかき集めてきた言葉にどれだけの価値があるだろうか。そんな風に書かれたものを、少なくとも私自身は読まないだろう。拙くとも、完璧でなくとも、直接言葉を交わすのと同じく、生きている言葉に触れたいのだ。それを受けて、自分の中の、小さな想いの共鳴を聞きたいのだ。書棚に並ぶ日本から大切に持ってきた本たちのどれを開いても、そこには、表現は様々ながらも著者の生き様が浮き出している。それが、アカデミックな質感の人もいれば、詩的な色合いの人もいる。それぞれが独自の音色を奏で、そして、日本から遠く離れたオランダの、小さな書斎の棚に並べられている。

正直に、そのままで、謙虚に、そして何より、一つ一つの言葉が血の通ったものになるように。書籍の目次案と今一度向き合い、「それは、本当に大切に思っていることなのか、伝えたいことなのか」と心の中に、宇宙に、大地に問いかけ、明日からもう一度、新たに第1章を書き進めていきたい。まだ見ぬ読者が待っていてくれるかもしれない。少なくとも、言葉になることを待っている言葉たちが、数え切れないほど宙に浮かんでいる。2019.10.8 Tue 19:27 Den Haag