389. オリオン座の隠れる夜明け前

目覚ましをセットした5 時よりも随分前から、目が覚めていた。昨晩眠りに就くのが早かったためと、1階に住むヤンさんが動き始めていたためかもしれない。ベッドを出て、湯を沸かしにいくと、キッチンの窓から目の前の道に大きな荷台の付いたバンのような車が停まっているのが見えた。見慣れない車だ。ヤンさんは今週から3ヶ月のバカンスに出かけると言っていたが、今日が出発の日なのかもしれない。もしかしたら、上の階に滞在している男性もヤンさんと一緒に出かけるのだろうか。3ヶ月の間、どこでどうやって暮らすのか想像もつかない。私もまずは多くのオランダの人々がそうするように夏の間、3週間以上のバカンスを過ごしてみたいと思うが、さらに長い時間をオランダで過ごせば3ヶ月のバカンスを楽しむことができるようになるだろうか。今のところ、仮に、時間的・経済的余裕があったとしても3ヶ月間仕事をせずに日々の暮らしを続け、それを「楽しむ」ということがイメージできないままだ。

見上げると、南の空に、斜めに並んだ星が三つ、それを四角く囲むように星が四つ。オリオン座と名付けられている星たちが見えた。しかし、西の空からの雲がゆっくりと移動してきて、星たちを隠そうとしている。目を凝らすほどに見えなくなる。南西の空低い位置にかかる雲の端はオレンジ色に輝いている。夜明けはまだ先のはずだ。それでも遠く、東の彼方からの光が、雲を照らしているのだろうか。

少し前に比べると、眠りに就く際に頭が回り続けるということは少なくなっている。まだここの2日間だけだが、20時以降にパソコンを開くのをやめ、その後1時間ほどは比較的ゆったりと読むことのできる随筆集などを読んでいるからだろうか。

ザーッという音が聞こえてきた。暗闇の中、中庭の木々のシルエットしか見えないが、書斎の中の空気も少し冷えてきた。この、「雨が降ったり止んだり」というのが終わる頃、オランダは本当の冬を迎えるのだろう。今日も静かに言葉を綴り、言葉に耳を傾けていく。2019.10.2 Wed 5:42 Den Haag

390. 役割ではなく在り方を生きる

窓を開け放ち、寝室のソファで一昨日の日記を確認しアップをしていたら雨の音とともに冷たい風が吹き込んできた。もう何日雨が続いているか分からない。昨年のこの時期、雨についてさほど強い印象はなかったように思う。これがオランダの秋。私には、新しい季節が訪れたことを知る匂いの記憶も、肌感覚の記憶もまだない。淡々と、気温とともに次の季節がやってくる。欧州に来てからの2年間、そんな風に季節が巡っている。それは、大海原の中、小舟に乗ってどこへ向かっているのか分からずに航海をしているような感覚でもある。新しい季節の訪れを小さな花が咲いていることで気づくことができたとき、本当の意味でオランダの住人となることができる気がしている。

ゆっくりとした毎日は本当にあっという間だ。もし、パソコンを開かず、時計も見ずに日々を過ごしたらどんな感じがするのだろうか。そんな風に日々を過ごしてみたいと思う自分がいる。今日という日の中に流れる音楽にもっと聴き耳を立てたい。空の匂いに溶け込みたい。

そう思うのは、今日、対話の中で自分自身にとって大切なものを確認したからかもしれない。テーマもゴールも決めず、ただゆらゆらと思考の間を漂い、未知の世界に辿り着く。その広さに、愕然とし途方に暮れ、心踊る。そんな対話の時間を共にできる師のような仲間のような存在がいることに本当に感謝が尽きない。

今の仕事は大好きだが、最近は「コーチ」という肩書きを捨ててしまいたいとさえ思う。私は、何かを教える人でも、導く人でもない。生きた人と人が、心と心が出会うという、その瞬間を生き続けたいだけなのだ。コーチングも、ダイアローグも、ナラティブも、言葉が世界に飛び出した瞬間に、消費の渦に巻き込まれ、陳腐化をしてしまう。「人とは違う名前を持ちたい」という欲求ではなく、ただ、ただ、名前がついていない、職業や、役割に基づいて行うのではない、在り方としてそこにいたいだけなのだ。

私たちはなぜ、ただ、心から関わるということができないのだろう。なぜ、人を、組織を、開発しようと思うのだろう。自然な姿ではダメなのか。ゆっくりと、自ら変化していくことを見守るのではダメなのか。今ある世界を見守るのではダメなのか。そうまでして、私たちが追い求めることは何なのか。

それでも、世界は、想いを持ち行動する人がいる中で、良い方向に向かっていくということを信じているから、私は「コーチ」という役割を続けている。

中庭の木々は風に揺れ向かいの一家は大きな食卓を囲んで食事をしている。それが美しい景色なのだと感じる。2019.10.2 Wed 18:57 Den Haag